鹿と小鳥 第7話

 居間の重厚な樫材の扉をそっと開けると、もう日付が変わろうとす
る時刻だったが、シリウスが暖炉の傍に置かれたお気に入りの寝椅
子で長い脚をのばしていた。テーブルの上のゴブレットにはブランデ
ーが半分ほど残っている。その横にかじりかけの林檎が転がってい
た。気配に振り向いたシリウスは、リーマスを見て笑顔を浮かべた。

「酸っぱいだろう、生の林檎なんて」

「あぁ、眠気覚ましになった」

と嘯くシリウスに、思わず疲れていたリーマスも微笑んだ。
おかえり、などと声をかけることはなかったが、リーマスが往診から
戻るのを待っていてくれたのだろう。先に眠っていても構わないのに、
眠気覚ましに酸っぱい林檎をかじって起きていたと思うと可笑しい。
シリウスは、口中がすっきりするといって、酸っぱい林檎を齧るのを
好むようになった。シリウスが生の林檎を食べるようになったのは、
最近、厨房に出入りするようになったからだ。
 ジェームズが不思議な縁であの小さなセブルスと一緒に暮らし始め
てから、シリウスはリーマスと一緒に過ごしたがるようになった。
ジェームズがセブルスにつきっきりなので一人では遊び歩く気になら
ないのだろう。シリウスはジェームズの変化が内心面白くないよう
だったが、それでいてその影響を受けて、召使いにジェームズのとこ
ろで出されるような軽い食事を用意するように命じた。料理人への伝
達が上手くいかずなかなか改善されないことに業を煮やし、パンの
焼き加減や献立を指示するために自ら厨房に出向いたのだった。
 その夜、リーマスの自室にシリウスがやってきて、厨房の現状を
目にした衝撃も露わに語ったところによると、主人といっても雲の上
の人であるシリウスが突然現れたので、厨房は上を下への大騒ぎに
なったらしい。シリウスの方も灼熱の大暖炉の前で冬でも汗まみれに
なりながら半裸で仕事をする料理人や下働きの者たちの姿を見て、
衝撃を受けた。
そして自分たちの食事を作る厨房が思いの外、不潔なことを知った
のだった。調理用の暖炉に用を足した跡があったし、床には食べ物
の欠片が転がり、部屋の隅を鼠が走っていた。
シリウスは厨房で一番年長の中年の太った男と直に話をした。男は
主人の気紛れに狼狽しながらも、抜け目なく受け答えした。

「その男、ジョンというんだが、あいつがガンだ」

 シリウスは、生まれてこの方厨房に足を踏み入れたことなどなく、
家政は家令が取り仕切っているので関知せず、いわゆる労働者と
言葉を交わしたことすらなかったが、厨房を誰が支配しているのか、
そして改善すべき点を男との会話の中で直感で把握した。
 厨房を取り仕切っているジョンは、料理の腕は良かったが、小麦粉
や砂糖、香辛料を横流しし、主人の食べ残した料理を近所の者に売
って小金を貯めていた。高価な砂糖や貴重な香辛料は鍵つきの棚に
入れて管理しているが、鍵の管理人本人が横領していたのだった。
シリウスは厨房の徹底的な大掃除を命じ、暖炉の煉瓦を新品にした。
それから、暖炉で用を足すことを厳禁した。
そのかわり、厨房につとめる者は誰でも薄いスモールエールではな
く、本物のエールを飲んでもよいことにし、週に一度は小麦だけで作
った焼きたてパンを支給すると約束した。残り物を邸の近所に売りに
行くことは禁じなかったが、使用人たちのためのエールやパンを横
流ししないように釘をさしておいて、抜き打ち的に頻繁に厨房に
現れた。
 シリウスから逐一経過を聞かされているリーマスが面白いと思うの
は、厨房の責任者がいかに狡く立ち回って小金を稼いでいるか散々
罵りながらも馘首にはしないのだ。ジョンとの攻防を楽しんでいるよ
うだった。シリウスなりの気遣いなのか、召使の耳があるところでは
この話題を出さず、いつもリーマスの部屋にやってきて報告する。

「ブラック公爵家でも、裏はきっとこんなもんだぜ。うちの家族は
誰も厨房になんて行かないからな。レギュラスがフランスから戻
ったら、こっちに滞在するように言おう。知ってしまったからには弟
にはきちんとしたものを食べさせてやりたい」

 自分もブラック公爵家の一員で、嫡子であるというのにシリウスは
そんなことを言って、にやりとした。
 ジョンは主人の気紛れをひどく迷惑に思い、初めのうちは早く飽
きないか期待している節が見えた。しかし、この頃では厨房が冬で
も暑いと心得て上着を脱いでシャツ一枚で現れては下働きの女たち
を興奮させる主人と真剣に応対するようになっていた。ジョンは良く
も悪くも計算ができる男なので、この主人を誤魔化して小金を得る
よりも、素直に従った方が利益を得る可能性が高いという判断を下し
つつあるようだった。

「何か食べろよ。ナッツとかドライフルーツとか。やわらかいチーズ
もあるぞ。果物のコンポートも何種類かあるはずだ。その後でスー
プを持ってこさせよう。ポリッジの方が食べやすいか?」

そう言ってシリウスは、卓上のベルを鳴らして召使いを呼んだ。真夜
中過ぎだというのに、すぐに出来立ての温かい食事が運び込まれた。
前もってシリウスが言いつけておいたのだろう。
リーマスは味がわからないほど疲れていたが、シリウスが見張ってい
るのでスプーンを機械的に口に運んだ。

 今日の患者は助けることができなかった。随分長く肺を患っていたの
に医者にかかるような余裕がない家の子どもだった。リーマスは表だ
って看板は出していないが、医者として近隣の者の依頼があれば貴
賤を問わず診療にいつでも応じた。貧しい者からは診療費を受け取ら
ないので、治療を受けた者の口の端からリーマスの医療の評判が広
まり、この頃ではよく往診を頼まれるようになっている。リーマス付き
の小間使いがちょうどこの辺りで生まれ育ち顔が利いたので、窓口に
なっていた。
シリウスはリーマスの仕事に口を出すことはないし、何くれとなく援助
していたが、内心ではこんなにリーマスが忙しく働く羽目になるなら、
病人は修道院の施療所まで自力で行くべきだと思っていた。しかし、
そのことをリーマスに話すことは決してなかった。シリウスは、修道院
で貧しい人々を癒す仕事こそがリーマスがほんの少年だった頃から
の夢であったことを知っているからだ。そして、その夢を摘んだのは
シリウスだった。


「風呂の用意をさせるから、熱い湯でさっぱりしろよ」

先ほどの食事の用意をしてくれた召使いたちもそうだが、
この時間から入浴のための大量の湯を沸かす手間を思うと
リーマスは気の毒になった。

「いや、今日は部屋で身体を拭いてすませるよ。お湯を少し僕の部
屋に持ってきてもらえるとありがたい」

シリウスは片眉をつりあげたが、リーマスがひどい顔色なので早く
休ませた方がいいと思い直して、リーマスの部屋付きの召使いに湯
の用意を命じた。そして、リーマスの肩を軽く叩き、早く休めよと労
わるように囁くと自室に引き上げていった。

 自分の部屋で、いつもの祈祷を済ませてからリーマスは寝台に入
った。体は疲れているのに、目は冴えていた。ふと、あの魅惑的な
シリウスの香りがしたような気がした。思わず、寝台の向こうに目を
凝らしたが誰もいはしなかった。目を閉じて息を吸いこむ。確かにあ
の香りがする。自分の錯覚にあきれながら、リーマスは手を寝間着
の中に滑りこませた。目を閉じて、想像する。自分の手を彼の手だ
と思って這わせた。身体の隅々、奥深くまで彼が与えてくれる喜び
を憶えている。この罪深い行いを神に懺悔することはできない。しか
し、この快楽と同じように罪もまた自分一人だけのものだ。

(2011.8.21)
 

 
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