鹿と小鳥 第6話


 自分の居室で夕食をすませた後、蝋燭の明かりに照らされた執務用の
机で、ジェームズ・ポッターはペンを滑らせ書き物をしていた。部屋は暖か
く静かで、暖炉の薪が燃えてはぜる音と上等な紙の上にペンを走らせる
音だけしかしなかった。手紙の返事を認めたり、こちらの方から問い合わ
せの用件がある方面に書状を書くのに思ったより時間がかかった。
 ポッター家のお仕着せを着た召使いが扉をノックしてから居間に入って
くると、湯の準備ができたことを知らせた。ジェームズがわかったと答える
と、召使いは足早に退室する。セブルスは、寝椅子の上で絵を眺めていた
ままの格好でうつ伏せて眠っていた。どうしても出席しなければいけない
宴会がない日には、こうして夕食の後はいつも二人で過ごしている。
昼間はジェームズも廷臣として何かと忙しいので、夜はできるだけセブル
スと過ごしたかった。宮廷に連れてきてからセブルスは大きな病気もせず
に過ごしているので一安心だが、何もなくても何となく全てが気にかかり、
ジェームズはしょっちゅうリーマスに相談したり、往診してもらっていた。
セブルスもリーマスの優しさに親しみを覚えたらしく、顔を見ると心持ち
表情が明るくなる。もうひとりの親友シリウスのことは少々怖がっている
様子だった。シリウス自身が見た目の華やかさに似合わず子どものような
ところがあって人見知りする方なのでポッター家の新入りに対して胡散
臭そうな視線を送っているのをセブルスは敏感に感じ取っているのだ。
野生動物の勘を思わせてどこか可笑しいが、そのうちお互いに慣れてくれ
るだろうとジェームズとリーマスは願っている。
一方、セブルスの乳母役として連れてきた侍女は深い信仰心をもち、自
分の子を幼くして亡くしたことがその発端だったらしいが、日に数度の礼
拝に欠かさず出席するほか、居室でも聖書を朗読してセブルスにきかせ
ている。セブルスには難しすぎるのではないかと思われたが、意外にも
セブルスはいつでも真面目な顔をして聖書の朗読に聞き入り、ジェーム
ズを驚かせた。乳母の宗教以外の時間は、すべてセブルスのために宛て
られ、居室では聖書を読んでいない時には、セブルスの新しい衣装に
刺繍をしていた。セブルスは刺繍には興味がないらしく、その間は国王
から下賜されたマルチーズたちの騒ぎまわる様子を眺めていた。
 セブルスをそっと起こした。眠たそうに目を擦るセブルスのガウンを脱
がせて下着姿にしてから抱き上げて、風呂の準備が整った隣の部屋に
連れていく。
木製のバスタブが赤々と燃える暖炉の前に置かれていた。熱湯を入れ
た木桶が次々と運び込まれ、シーツが敷かれてある木製のバスタブに
湯が満たされ、バスタブのまわりにも熱湯が入った桶がいくつも置かれ
た。準備が整うと召使いたちは退室する。湯の加減を確かめてから、
セブルスを温かい湯の中にそっと降ろした。セブルスを、最初に入浴さ
せた時は恐慌を来し暴れて大変だった。真冬に戸外で水を頭から浴び
せられたりして虐待されていたのだから水嫌いで当然だ。お湯で身体を
清潔にすることはとても気持ちがよいことだとセブルスが受け入れるまで
にはかなり時間がかかった。それが今ではすっかり慣れジェームズにな
されるままだ。これは人任せにはできない。
フランス製の香り高い石鹸を泡立て、やわらかい布でセブルスの小さく
細い身体を洗っていく。泡で遊んでいるセブルスの耳の後ろや背中を綺
麗にし、髪を丁寧に洗った。体が温まり、良い香りに包まれて気持ちよさ
そうに微笑むセブルスが、ジェームズを見上げる。ジェームズも優しく微
笑んで視線を合わせた。
桶の湯で石鹸を洗い流し、暖炉の前で暖めてある清潔な布で身体の
水気を拭いてやり、これも暖めておいた寝間着を着せて、髪を乾かした。
それから、寝室まで腕に抱いて運ぶ。部屋の中央に置かれた彫り物が
施された樫の大きな寝台に寝かせて裏に毛皮がついた毛布の上から
厚い掛け布団をかける。寝台のカーテンは閉めずにおいて、寝室の暖炉
が明るく燃え、隣の小さな寝台でマルチーズたちが眠っている様子が見
えるようにし、寝室の扉を開けたままにして、召使いたちが新たにバス
タブに用意した湯で自分の入浴を済ませる。寝室に戻ると、今度は扉を
閉めた。寝台に入りカーテンを引くと、本当に二人きりになる。ジェームズ
がセブルスが暗闇を怖がるといけないので、カーテンに燃え移らない
位置に蝋燭置き場をつけたので、中はほんのりと明るい。
レースと刺繍で飾られた白い袖に隠された小さな手が、ジェームズの
胸に触れる。ジェームズが片腕で引き寄せると重たげな黒い髪がその
あたたかな胸に納まるのだった。

 セブルスを引き取ってからの生活がこれほど素晴らしいものになると
は思わなかった。

 夜、二人一緒に眠りに就くこの時間にいつもジェームズはそう思った。
セブルスが、小さな手で自分に触れてきたり、髪と同じ黒い瞳と見つめ
合っていると言葉を交わさなくても通じ合うものがある。セブルスをいずれ
恋人や妻にしたくなるのだろうか。あるいは娘のような存在なのだろうか。
ジェームズは自問自答したが、まだ答えは見つからない。
例えば、エリザベスを溺愛していた父と同じ道を辿るのだろうか。
父が亡くなって数年経つが、父の人となりはジェームズの中に今も息づ
いていた。ジェームズが若くして家督を継ぎ、領地を問題なく采配し、
宮廷生活を恙無く送れるように教育し育ててくれた。といっても、いつ
いかなる時でも優しい愛情で包み込むように育てられる中で、それは
自然に身につくように取り計らわれた。父ならば、ジェームズに家督を譲っ
て田舎に隠居し、エリザベスの結婚相手には爵位に拘らず近隣の郷紳
階級の男を選んで愛娘をいつまでも手元に置いておきたいと願ったかも
しれない。爵位の釣り合いのみに拘った縁組みで幸福になれる例は少
ないからだ。貴族階級に属する者にとって、結婚に愛は必要な価値観
ではない。恋愛は宮廷を華やかに彩るゲーム、そして色褪せやすい
徒花だ。
 蝋燭が燃え尽きるまで、セブルスと見つめ合って過ごすささやかな
時間が今は何にも換え難い。セブルスは、隣で小さく欠伸をしている。
この痩せて頼りなげな体つきをした子どもは、ジェームズにとって他の
誰とも違う。ジェームズはそのことを自覚していたが、どういう関係に
進んでいくべきなのか決めかねていた。既存の関係には、違和感を
覚える。セブルスの白い額に口づけながら、明日にはまた仕立て屋
を呼んで、新しい衣装を作らせようと思いついた。装身具の職人にも
頼みたいことがあるので忘れないように召使に言っておこうと思いなが
ら、ジェームズも眠りに就くことにして目を閉じた。


(2011.8.8) 
 
 
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