鹿と小鳥 第65話

 ジェームズとセブルスが客室に引き取った後の居間では、先程まで
のかりそめの平和な空気が消えて重苦しい空気に包まれていた。
侯爵が何者かに襲われて負傷した衝撃と、親子で一緒に過ごすこと
など年に一度くらいのことで普段疎遠にしていることもあってシリウス
とレギュラスは緊張していたし、侯爵も表情こそ穏やかだったが、
やはり端正な顔に疲労が色濃く浮かんでいた。
「さて、と。私もそろそろ休むとしようか。さすがに今日は疲れてしまっ
た」
怪我をしていない方の手で胸元を緩めながら、侯爵は息子達にあえて
気軽な調子で話しかけた。
「すぐに寝室の用意はさせますが…」と言い淀むシリウスに続いて、
「今夜、父上をお一人にするのは心配です」とレギュラスが普段とは
違う硬い声で話に割り込んできた。表情も強ばり、険しい。シリウス
はレギュラスと同じ気持ちもあったが、リーマスと二人で話したいと
も思っていたので心中は複雑で、どうすべきか決めかねた。
「何が心配なのだね?もう手当も済んだではないか。案じることは
ないからおまえ達も休みなさい。今日は騒がしくして悪かった」
香り玉を嗅いでから掌で弄びながら、侯爵は気怠げな様子で息子た
ちの顔を見た。
「今夜はこのままここで休むことにする。さすがに寝台に横になる気
にはなれない。あぁ、シリウス、宮廷に使いをだしてくれただろう
ね?」
「えぇ、明日の朝には父上の家来たちがここに駆けつけてくるはずで
すよ。しかし…」
シリウスは、父親の顔から、弟、それからリーマスへと視線を巡らせ
た。リーマスはブラック親子の会話を黙って聞いていたが、シリウス
と目が合うと、いつもの穏やかな口調で侯爵に話しかけた。
「今夜はレギュラスの言うとおりにしてはどうでしょう。思いがけずも
久しぶりにご家族が集まられたのですから話が弾んでもおかしくは
ないですし、気がつけば夜が明けていたという風に召使い達に思わ
せておくこともできる。ピーターが戻ってきたら、毛布を用意させまし
ょう」
「リーマスがそう言うなら私はかまわないが。息子達よ、いいか
ね?」
意外にも侯爵が気が乗らない様子ながらリーマスの提案を承諾した
ので、レギュラスはほっとしたように溜息混じりに肯いて同意した。
シリウスはリーマスと話がしたかったので半ば不服だったが、レギュ
ラス一人を父親に付き添わせるのも心配だったので、
「皆で眠るのも悪くないな。なんだか気持ちが落ち着かないから」
と言いはしたものの、リーマスに「ピーターと僕は用意ができたら失礼
するよ」と言われて失望して不機嫌になった。
 ジェームズとセブルスを送って戻ってきたピーターがリーマスの指示
で慌てふためきながら毛布を用意し、暖炉の薪を足したり、テーブル
の上のゴブレットや皿を整えると、リーマスは侯爵に挨拶し、すぐにピ
ーターを連れて部屋を出ていった。暖炉の薪が燃えさかる音以外、気
詰まりな沈黙が支配する部屋でブラック侯爵と兄弟はそれぞれ衣服
を緩めて楽な姿勢になった。シリウスは寝椅子にクッションを積んで
足を高く上げて仰向けに寝そべり、父と弟をそれとなく見やった。
三人には疑いようもなく同じ血が流れているらしく父と弟と自分はとて
もよく似ている。自分を現在とするならば、父は未来であり、弟は少し
前の過去のようだ。シリウスは時間の部屋に閉じこめられてしまった
ような気がした。
レギュラスは緩めたシャツからペンダントを取り出し、トップの精緻な
銀細工が施された珠を大切そうに握って、静かに祈っていたが、侯爵
がその姿に興味を示した。
「それも香り玉かね?」
「えぇ、レディ・セブルスからいただきました。レディが調合された香り
です」レギュラスの言葉にシリウスは自分もペンダントをつけているこ
とを思いだし、シャツから引っ張り出して鼻に持っていき、香りを嗅い
でみた。香り玉はセブルスが今回の訪問の土産にと拵えて持ってき
てくれたのだが、各人によってセブルスのこだわりで調合が違うらし
い。シリウスは以前高価な香辛料をセブルスに贈ったことがあったが、
この香り玉に使われているのかはわからなかった。香水が周囲の気
を惹くものであるならば、この香り玉は身につけている者の為に作ら
れた物のように思える。
「あの小さな人はこんなことも得意なのだね」
侯爵が少し感心したように呟いたので、
「あのダンブルドアがあの子に薬草への興味を持たせたんです。独
学ですが、ダンブルドアやリーマスと文通して教えを請うているので
かなり本格的ですよ。セブルスは凝り性だな」
シリウスが説明した。「確かに」とレギュラスも同意して柔らかい表情
で微笑した。
「父上が手に持っていらっしゃるものもセブルスが作ったんですよ。
それはピーターのものなんで明日にでも返してやってください」
とシリウスが思い出して言うと、
「ほう?これが一番大きいようだが」
三つの香り玉を見比べて侯爵が答えた。セブルスがどういう基準で
香り玉を作製したのかは不明だが、シリウスは自分の物が一番小さ
な事に気づいた。まさかセブルスが好いた順に贈る大きさを決めたの
ではあるまいが、自分はセブルスに何かと贈り物をしているのに、一
番適当な扱いをされたと思うとなんだか可笑しくなった。シリウスは昔
から自分に興味がない人間を好ましく思う傾向がある。
「ピーターはリーマスの助手なので、患者用でもあるそうですよ。
痛みが薄れたり、気持ちが落ち着く効果があるそうです。セブルスは
それをつけるベルトもピーターに渡していたな。ベルトはジェームズか
乳母が考えついたのかもしれないが」
シリウスが思いつくままに話すと、
「飛び込みの怪我人にとってもありがたかったね。痛みがずいぶ
ん和らいだ」
と、侯爵は口許に笑みを浮かべ、握っている香り玉をしげしげと眺め
た。親子で過ごすこと自体稀で、使用人抜きで同じ部屋にいることな
ど初めてであることに三人とも気づいていたが、それ以上は特に語ら
うこともなく皆、自分の香り玉の匂いを感じながら、夜が更けるのを
待ち続けた。

 持ってきた手燭の小さな炎の明かりだけを頼りに、リーマスとピータ
ーは就寝の支度をした。部屋には丁字の香りが仄かに漂っている。
セブルスが丁字を刺した林檎を作って土産に持ってきたもので、リー
マスは几帳面なセブルスの仕事ぶりを褒めた後、その丁字林檎を自
室の机の上に並べて飾ったのだ。ピーターは居間から退出した後、
廊下を歩きながらリーマスに、
「私の部屋に寄っておくれ」と言われたので一緒にリーマスの部屋ま
でついて行った。先ほどジェームズとセブルスを送った時と同じように
ピーターが手燭を持っていたが、リーマスの落ち着いた足音と一緒に
歩いているので、ピーターは安心していた。部屋の扉を閉めてから、
リーマスは一人でいるのが嫌なら今夜はここで休むといいとピーター
に話しかけた。
「思いがけない事があったからね。今夜はきみも一人でいるのはいや
じゃないかと思ってね。ああいうことがあると気持ちが乱れてしまうも
のだから」
リーマスはピーターの不安な心を見通していたのだ。ピーターはリー
マスが自分のことを気にかけてくれていたことに驚き、心から嬉しくな
った。リーマスの助手になってこの屋敷に来た時から、ピーターには
狭いながらも専用の部屋が与えられている。もちろん宮廷では共同の
召使い用の部屋を使うが、この屋敷で個室を与えられていることで他
の召使いとは一線を画す存在と見なされているのだが、今日は一人
部屋で過ごすのが怖かったのでリーマスの心遣いがありがたかった。
リーマスの部屋はシリウスの配慮で日当たりがよく、ピーターの部屋
の何倍も広かったが、調度は簡素で必要最低限のものしか置かれて
いない。リーマスは医者として忙しく、自分の部屋には寝に戻るだけ
のようなものだったが、ピーターが急な往診が入ったり、言いつけられ
た用事の報告をしにこの部屋を訪れた時、この屋敷の主であるシリウ
スがいることがあった。
シリウスとリーマスは親友の間柄で、シリウスは使用人に聴かれたく
ない話をしにリーマスの部屋に来るらしい。ピーターはダンブルドアか
らリーマスとシリウスの関係について問い質されて、答えに窮したこと
があったが、二人は確かに親密な仲としかいえない間柄に見える。
しかし、シリウスは華やかな存在なので、愛情を誰かに示すと人目を
ひいてしまうのだろうというのがピーターの出した結論だった。
 ピーターは自分の部屋から布団を取ってきて床で寝るつもりだった
が、リーマスは自分の寝台を半分使えばいいと言ったので恐縮し、頭
や手をさかんにばたばた振って遠慮した。
「少しばかり窮屈だろうけれど、大丈夫だよ」
リーマスはそう言って微笑んだ。
「さて、お祈りをしようか」
リーマスに促され、ピーターもリーマスより少し下がった位置に膝をつ
き、両手を組んだ。長い祈りの後、顔を上げてピーターを振り返ったリ
ーマスが、ピーターのまるい頬の赤みに気づいた。
「おや、頬が赤くなってる。虫刺されや切り傷ではないね。擦ったよう
な…」
昼間、侯爵の血に動転していたピーターにシリウスが頬を抓ったり、
髪を掴んで揺さぶって喝を入れられたのだ。おかげでピーターは勇気
を出して用事が出来たのだが、シリウスの容赦ない振る舞いもピータ
ーは恐ろしく、その恐怖の上書きで正気づいたようなところもあった。
「たぶん、昼間厩舎の柱にぶつけたんだと思います。僕、すごくびっくり
してしまったので。でも全然痛くないので大丈夫です!」
咄嗟に嘘をついたのは、説明すると長くなるし、シリウスを悪く言うこと
になりかねないからだ。シリウスは乱暴だったが、自分が無能だった
ことが悪かったのだとピーターは考えていた。
「そうかい?」
リーマスの視線を誤魔化すかのようにピーターはぶんぶんと頭を縦に
振って見せた。
リーマスの寝台に二人で横になると確かに少し窮屈だったが、ピータ
ーは安堵する気持ちが心臓から全身に広がっていくようで、リーマス
の優しさへの感謝があらためてこみ上げてきた。
「ちょっと狭いけれど、なんだか楽しいね」リーマスはピーターの肩を毛
布で覆いながら、囁いた。ピーターは肯いて、
「うちは寝台が一つしかなかったのでずっと母と一緒に寝てました」
と打ち明けた。一家で一つの寝台しかない家はピーターの育った村で
は珍しくなく、家族全員で一緒に眠るのが普通だった。ピーターは物
心がついた時には父は亡く、母と二人暮らしだったが、父が生きてい
る時には三人一緒に眠っていたに相違ない。
「そう。僕も小さかった頃、母と一緒に休んだことがあるよ。アーサー王
の物語を話してくれたなぁ」
 リーマスの声は懐かしそうだった。リーマスの両親は早くに亡くなっ
たと聞いている。リーマスは自分の話は滅多にしないが、前に過労で
倒れた時も母親の話をしていたことを思いだし、ピーターは急に心配に
なった。リーマスはとても疲れているのではないだろうか。暗闇の中で
はリーマスの顔色はわからなかったが、端正な横顔はいつも通り穏や
かだった。
「今日はよく頑張ってくれたね。僕が戻るまで君が動いてくれたから騒
ぎにならずに済んだ」
そう言って、リーマスはピーターを労った。ピーターとしては、あの不思
議なところはあるが、可愛らしいセブルスの方が自分より遙かに冷静
で有能だったことに内心忸怩たる思いを抱いていたのだが、リーマス
はピーターの働きを認めてくれた。
「そうそう、君がセブルスから預かっていたガウン、ちゃんと渡した
からね。あの家の女の子は大感激していたよ。今日は君にも来てもら
えばよかったんだけれど…」
言葉を濁すリーマスに、ピーターは、
「ジェームズ様からセブルス様の乗馬の練習を見ているように仰せ
つかっておりましたので」と答えたが、あの近日中に英国を去るとい
う、ポッター家の元使用人の一家とジェームズの面会を自分に見せ
ないように配慮されたと察していた。
「ふふ。ジェームズはセブルスのこととなると恐ろしく心配性になるか
らね。可愛くて仕方ないんだ」
リーマスは楽しげに笑った。
「さ、もうおやすみよ。今日は大変な一日だったからね。また明日ね」
リーマスはピーターがきちんと布団に包まれているかもう一度確認す
ると、蝋燭の灯を吹き消した。燃えた蝋の匂いと丁子の香り、リーマス
から伝わってくる温もりがピーターを安心させ、大変な一日がやっと終
わったのだと思えた。それからすぐにピーターは眠りにおちることがで
きたのだった。

(2016.4.25)

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