鹿と小鳥 第64話

 ピーターは燭台で暗い廊下を照らしながら、セブルスを抱えたジェ
ームズを先導して歩いた。セブルスはミルク酒を飲んで腹が温まった
ためか、今日の衝撃的な出来事に気疲れしていたのかかなり眠そう
にしていたので、ジェームズが抱きかかえて部屋を出たのだ。乳母
はセブルスの就寝の用意をするために一足早く客室に戻っていたの
で、ピーターが廊下を燭台の灯りで照らす役を命じられたのだった。
臆病なところのあるピーターは夜の暗い廊下の雰囲気に足早になり
そうな自分を叱咤するかのように太く短い足を意識してきびきびと動
かしていたが、ジェームズはセブルスを軽々と、しかしとても大事に
抱えながらも悠然と歩いていたので、歩調の違う二つの靴音が廊下
に響きわたった。客室の前まで来るとノックを待たずに扉が開き、乳
母とポッター家の従者たちが主人を出迎えに出てきた。乳母は先程
の出来事を微塵も感じさせない落ち着き払った態度だったが、セブル
スの姿を確認すると眸に安堵の色が浮かんだ。
「ピーター、ありがとう。今日は疲れただろうから君もゆっくり休むんだ
よ」ジェームズは扉の前でお辞儀をしているピーターに労いの言葉を
かけた。ピーターが顔を上げると、ジェームズは陽気な笑みを浮かべ
て肯いて見せる。いつもの人を安心させる温かな笑顔だ。その胸元に
セブルスが小さな顔を預けて完全に寝入ってしまっていた。
「おやすみなさいませ」
人の目があるのでピーターもジェームズに恭しく返事をして部屋に入
っていくジェームズ達を見送り、乳母や従者達とも目礼を交わした後、
シリウス達のいる居間に戻るべく引き返した。一人で夜の廊下を歩く
のは気味が悪く自然と足早になってしまうが、居間にいる主一家の
事を思うと気が重くなる。それにしても、あの小さなレディは本当に
不思議な方だとピーターは考えた。子どものようでいて聡明、大人び
ているようで幼い。機転を利かせた行動をとるかと思えば、ポッター
伯に抱かれているならば、人前でも平気で眠ってしまわれるのだ。
 昼間、突然厩舎に負傷して血を流しているブラック侯爵が現れた時、
厩舎にはシリウスとレギュラスの兄弟、セブルスと乳母、そしてピータ
ーがいた。ジェームズとリーマスはポッター家に縁の者の家を訪ねて
いておらず、馬係は人見知りのセブルスを慮って外に出ていた。ピータ
ーはリーマスの供をすると思っていたのだが、今日は残ってセブルスの
世話をするようにジェームズに頼まれたのだ。ジェームズは自分の留
守中にセブルスが乗馬で障害の練習をするのではないかとひどく心
配していて、よく見張っているようにとピーターに繰り返し言いつけて
からやっと出かけていったのだった。
 平常より大胆な乗馬の練習の後で、厩舎でセブルスがポニーにプラ
ムの砂糖漬けを手ずから与えるのを皆で和やかに見守っていた時だ
った。ひどく取り乱している馬を片手で引きずるようにして、ブラック侯
爵が乱入してきたのだ。厩舎の馬達は伝染したように嘶き、たちまち
騒然となり、乳母はセブルスを抱えて蹴られない安全なところまで下
がらせた。ピーターはすぐに血の匂いに気づいて、恐怖のあまり目の
前が暗くなり、その場に膝を突いた。
「父上!一体?」掠れた声でシリウスは問うたが、侯爵も崩れるように
座り込み、俯いて苦しげに呼吸していて返事はなかった。
シリウスとレギュラスの兄弟が父親の異常な登場に気を取られてい
る間に乳母に庇われるようにして立っていたセブルスは、驚愕のあま
り危うく卒倒しかけているピーターに気づいた。すぐにセブルスはピー
ターの傍に来て、自分が贈った香り玉をピーターの腰のベルトから抜
き、素早く鼻に持っていき嗅がせて正気づかせた。そして次に侯爵の
ところに行き、香り玉を蒼白な顔をしている鼻先に持っていった。侯爵
は蹲り、苦しげな吐息を漏らしていたが、香り玉の消痛効果に気づい
たのか無事な方の手で香り玉を掴んで鼻孔に宛てて香りを吸い込ん
だ。侯爵は自分で傷を止血していたが、完全ではなかったので血を失
い、意識が遠くなりかけていたらしい。ピーターほどではないが動揺し
たブラック兄弟が立ち尽くしているなか、セブルスは侯爵の傷のあたり
をじっと見、つと傷の上の脇に近い部分を乳母に向かって指さした。
するとセブルスの意図を察した乳母が持っていた藤籠を探って、セブル
スの乗馬の練習後の顔の汗拭き用に持参していたハンカチーフでそこ
を縛った。セブルスは眉をひそめて見つめていたが、止血に成功した
ようだと乳母が言うとこくりと肯き、くるりと背を向けると乳母とともに
さっさとその場を立ち去ってしまった。
しかし、皆動揺していたため、セブルスの事を薄情だと思ったり、何か
考えがあると思う余裕のある者はいなかった。ほどなくして侯爵は
唖然としていたシリウスに居間に案内するようとに言って立ち上がっ
た。顔色こそ血の気が失せて白かったが、堂々として宮廷にいる時と
同じ威厳が漂っている。
「どうしてこの屋敷には使用人が見当たらないのだ?私には好都合だ
ったが」
侯爵は辺りを見渡しながらシリウスに問いを投げた。
「セブルスが人見知りなので人払いしてあるんです」
シリウスの説明に、侯爵は苦笑した。
「私はあの小さな人に助けられたわけだな。ところで、リーマスはどこに?
うちの主治医をすぐに呼んでくれ。そうだ、私は遠乗りに出かける途中で
気が向いたのでここに来たということにしておくように。おまえ達には後で
説明する」
シリウスはピーターをリーマスの元に送ろうと考えたが、ピーターのひどく
動揺している様子にこれは無理だと判断し、他の者に文を持たせることに
して、おもむろに小刻みに震えるピーターの頬を思いきり抓ってから、髪を
両手で掴んで激しく揺さぶった。
「ピーター、しっかりしろ!屋敷の者たちに父上の怪我を気づかれてはい
けない。これから、居間に皆で行く。俺とレギュラスは父上と並んで歩く
から、お前は先に立って歩け。レギュラス、大丈夫か?」
レギュラスは血の気の引いた顔をしていたが、冷静な声で答えた。
「ええ。さぁ、行きましょう」
レギュラスはシリウスに揉みくちゃにされたピーターの頭に手を置いて、
「頼んだよ」と言い聞かせた。ピーターはその言葉に奮起して、なけなし
の勇気を振り絞って進み出ると、先頭に立って歩き出したのだった。
 セブルスは、夢うつつにジェームズと乳母が声を潜めて話し合っている
声をずっと聞いているように思っていたが、それはいつの間にか乳母の
祈祷の声になっていた。そういえば、今夜は寝る前のお祈りをまだして
いないと気づいた途端に目が覚めた。
蝋燭が燃えて溶ける匂いが鼻孔を擽る。セブルスが知らないうちに客室
に戻っていて、寝間着に着せ替えられて寝台で眠っていたらしい。
ジェームズは傍らで背に枕やクッションを宛てて座った姿勢で目を閉じて
いた。セブルスはジェームズが横になっていないことを訝り、自分も起き
あがろうとした。
「おや、目が覚めたのかい?まだ夜だよ」
身じろぎするセブルスの気配にジェームズが気づき、声をかけた。
「セブルスはそのままおやすみよ。侯爵があんなことになっただろう?
落ち着かないから今夜は座ったまま休むことにしたんだ。僕が番をしてい
るからセブルスは安心して眠るといい」
ジェームズはそう言ってセブルスの黒髪を優しく撫でたが、黒い眸は閉じ
られることなく、ジェームズを何か言いたげに見つめた。
「お祈りをしていない」
と言うセブルスにジェームズは笑って、
「乳母が代わりに祈っていたから大丈夫だよ」と笑いかけた。
「ばあやはセブルスのことを誇りに思うって言っていたよ。僕も同じだ、
スウィートバード」
 その時、セブルスの爪先の傍の掛布団の上に集まって丸くなって寝て
いたマルチーズたちのうちの一頭が目を覚まし、のしのしと掛布団を踏み
ながら上がってきて、セブルスの顔を舐めた。宮廷の居所では小さな寝台
をマルチーズ達で使っていたのだが、シリウスの屋敷では慣れない場所
で不安だったのかジェームズとセブルスの寝台に上がりこみ、セブルスの
横か、足先の付近に集まって眠るようになったのだ。他の場所に寝床を用
意して移動させたら、一晩中吠えたてる剣幕で騒いだので結局マルチー
ズ達の好きにさせることになったのだった。セブルスはマルチーズに鼻先
を舐められて、擽ったそうな表情をし、細い指先でマルチーズの胴体を探
ろうとした。ジェームズが、セブルスを抱き起こし、マルチーズを腿の上に
置くと早速、セブルスは小さな手でぽんぽんと軽い調子でマルチーズをあ
やしだした。ジェームズは寒くないようにセブルスの華奢な肩を大きな温
かい手で包んだ。
「ジェームズと話がしたかった」
セブルスがぽつりと呟くと、セブルスはジェームズの胸元に抱き寄せられ
た。
「僕もだよ、セブルス。よりによって僕たちが離れている時にこんな事にな
るなんてね」
セブルスはジェームズの胸元でこくりと肯いた。耳を温かな胸にあてると、
ジェームズの心臓の鼓動がセブルスの耳の中で響いた。

(2016.2.25)

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