鹿と小鳥 第66話

 早朝、屋敷の礼拝所から朝の礼拝を終えたブラック侯爵と息子
達、客人であるポッター伯爵とレディセブルス、ルーピン医師、レデ
ィの乳母とピーター、侯爵の従者達が順に出てくると、廊下の壁
際に並んだ召使い達が一斉に深々と頭を下げた。ゆったりとした
足どりで威風堂々としている侯爵の後ろを、侯爵の嫡子でこの屋
敷の主であるシリウスは眠気がまだ残っているのか少々不機嫌
そうな表情で歩き、その弟のレギュラスは完全なる貴公子然とし
た様子で歩いていた。その背後にはポッター伯と小柄なレディセ
ブルスが並んで歩いていたが、レディは細い首にトレードマークに
なっているPの金文字がついた真珠のチョーカーが輝いている上に
ロザリオも胸にさげ、深緑地に銀糸で刺繍が施されている絹の綺
麗なガウンという華やかな装いに関わらず、ひどく生真面目な表
情で聖書を抱えて歩いていた。
「今日も晴れてよい天気になりそうだから、また乗馬の練習をしよう
か。今日は昨日より一段障害のバーを高くしてみよう」
侯爵がレディセブルスを振り返って話しかけると、レディではなく隣
のポッター伯が慌てふためいて答えた。
「セブルスは乗馬の練習を始めたばかりですから無理です!」
ポッター伯はレディセブルスを掌中の珠のように溺愛していて、あら
ゆる事を危険だと止めたがるのだった。しかし、侯爵はポッター伯
の言葉を意に介さなかった。
「昨日見た限りでは、ポニーは軽々とバーを飛び越えていたから大
丈夫だろう」
「しかし、落馬して首の骨を折ったら死んでしまいます!」
「朝から何を不吉なことを言うのだ、ジェームズ。今のバーの高さは
レディのマルチーズ達でも平気で飛び越えて遊んでいるほど低い
ではないか。レディの手綱捌きはなかなか見事だし、ポニーと息を
合わせるのも上手い。もっと難易度を上げても大丈夫だ」
 シリウスとレギュラスも父親と同じ意見らしく肯いていたし、ルーピ
ン医師まで乗馬をしているセブルスの活発な様子を喜んでいる様子
なのでジェームズはぎりぎりと歯軋りする思いと心配が複雑に入り
交じった表情でセブルスの艶々と豊かに波打っている黒髪を神経質
な指使いで撫でた。セブルスは自分の事が話題にされているという
のにそ知らぬ表情で黙っていたが、内心では侯爵の提案に興味が
あるらしく侯爵とポッター伯を交互に見上げた。
「小さな人よ、今日は髪は束ねて一昨日の緋色の帽子をかぶった
らどうかな?あれはたいそうお似合いだった」
 侯爵の言葉にレギュラスが即座に賛同し、シリウスもセブルスは
黒い眸で色白なので深紅や深緑がよく似合うと断言したので、ジェ
ームズはそれならガウンも着替えなければいけないと考え込み、乳
母に新しいガウンの支度を言いつけた。乳母はすぐにご用意できま
すと請け合い、当の本人の頭上で今日の服装が決められたのだった。
「さぁ、まずは朝食にしようか」
侯爵が話すのと同時にちょうど一行は食堂にたどり着いたので、扉
の前で控えていた召使いが扉を大きく開いた。中にもたくさんの召
使い達が一列に並んで控えていて主達に一斉に恭しくお辞儀をし
た。一行が長いテーブルのそれぞれの席に座るとすぐに食事が始
まった。典型的な貴族の会食風景だが、この屋敷では久方ぶりの
ことであり、召使い達は好奇心と緊張感をもって主達が食事をする
様子を見守った。

 ブラック侯爵家の嫡男であるシリウスの屋敷は、シリウスが窮屈な
宮廷や侯爵家から逃避するための隠れ家的な意味合いのある屋敷
であったので、儀礼的な事柄は極力排除され、召使いたちにまで
自由な雰囲気が行き渡っている。しかし、召使い達は待遇の良さに
感謝しながらも、貴族の屋敷に仕えているという煌びやかさが少々
欠けていると感じており、そのことを残念に思っていたのだった。
それが、この数日の間に屋敷は小規模ながら宮廷のように華やぎ、
召使い達も浮き足立っていた。それというのもシリウスの父ブラッ
ク侯爵が滞在しているからだ。侯爵は突然屋敷に供も連れずに単
身で現れた。乗馬の途中でシリウスの屋敷に立ち寄ろうと思いつ
いたということだったが、召使い一同が驚いた。侯爵が息子の家を
訪問したことは今まで一度もなかったのだ。しかし、シリウスもふと
した思いつきで行動することがよくあるので、父親も似ているのか
もしれないと召使い達は噂しあった。侯爵の突然の訪問の前に、
屋敷にはポッター伯爵一行が既に滞在中だったが、ポッター伯爵
家のレディ・セブルスはひどい人見知りということで、召使い達は
なるべく気配を消しておくように主人から命じられ、食事も非公開
とされたので客人達の様子がよくわからない不満が燻っていたの
だが、侯爵が来ると同時に様子が一変したのだ。大勢の侯爵の
従者たちが屋敷に到着して賑やかになったこともあるが、侯爵の
意向で主人達の食事が急遽公開されることになったのだ。シリウス
とポッター伯はレディの内気な性格を理由に難色を示したが、侯爵は
軽々と一蹴した。
「この小さな人が不品行な振る舞いを好むと人に謗られたらどう
するのだ。田舎でお育ちで宮廷作法に不慣れなのは仕方ないが、
少しずつ慣れていくように導いていかなければいけない」と侯爵は
逆にシリウスとポッター伯を叱った。
「道理で宮廷晩餐会で姿を見なかった筈だ。陛下はこの小さな人
がたいそうお気に入りだというのに」
ポッター伯はレディ・セブルスは宮廷晩餐会に出席するにはまだ
子どもすぎるので遠慮していたと言い訳したが、侯爵は宮廷行事
に参加せずに宮廷で暮らすのは不自然なことだと指摘し、ポッタ
ー伯に背に隠れるように無言で佇んでいたレディ・セブルスに直接
話しかけた。
「宮廷に戻ったら、是非とも晩餐会に出席なさい。人の目なぞ気
にとめる必要はないのだよ。陛下は貴女のことを余の宮廷の一番
小さな家臣と言われてしょっちゅう話題にされるほどお気に入りな
のだ」
レディ・セブルスは侯爵に優しい口調で話しかけられても、ポッター
伯の顔を見上げた後、侯爵をちらりと見上げ、またポッター伯を見
上げて返事をしなかった。平常通りの態度だ。侯爵は小さなレディ
を叱ったりはせず、穏やかな口調で提案した。
「それではこれからここでしばらく練習することにしよう。特別身
構えるようなことは何もない。誰が見ていようが貴女はいつも通
りに振る舞えばいいのだよ、かわいい人」
侯爵はあくまで穏やかな口調だったが食事を公開すると宣言し、
レディセブルスの黒い眸を見つめた。すると誰もが予想しなかっ
たことにレディは侯爵の灰色の眸を見返し、こくりと肯いて見せ
たのだった。
 その後、元から屋敷に仕えている召使い一同は侯爵の命令に興
奮しつつも、自分たちの主人であるシリウスの命令を反古にするこ
とに一抹の抵抗を感じずにはいられなかったし、レディセブルスの
内気で神経質らしい気質も慮って頭を悩ませることになった。結局、
食堂に出入りはするが、レディを不躾に見て怯えさせることがない
ように皆気をつけようという折衷案でいくことで話し合いは決着し
たのだった。

(2016.9.23)

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