鹿と小鳥 第63話

 ブラック侯爵の言葉に、リーマスがセブルスを振り返ると、黒い眸と
目が合った。思わず安心させようと肯いて見せると、セブルスもこくり
と肯き返してきた。極度の人見知りなので緊張はしているようだが、
冷静に状況を見ている様子だ。リーマスは医者でありながらポッタ
ー伯爵家の領地で過労で倒れてしまった時、セブルスが的確に対処
してくれたことを思い出した。普段はジェームズに常に世話を焼か
れ、自分のことも何もしないでいるようなものなのにつきっきりで手厚
い看護をしてくれたのだ。病気で弱っていたためか、この一見か弱い
少女にずいぶん甘えてしまったものだ。
 リーマスは侯爵の腕の状態を診てから、先ほど乳母が作ったばか
りの包帯で傷を巻いて固定した。その間、部屋にいる者は皆黙りこん
でいたが、セブルスはいつの間にかリーマスの傍に歩み寄り、血が
苦手で貧血をおこしかけているピーターの脇から侯爵の腕に巻かれ
ていた血で染まった布を両手で掴むと、とことこと暖炉まで走っていっ
て、火の中に投げ入れた。それから、火掻き棒を両手で抱えてよろ
よろと持ち上げようとしたが、乳母がセブルスの意図を察して火掻き
棒を預かり、丹念に布を焼きあげた。セブルスは乳母が作業する様
子をじっと見守り、布が燃えて灰になってしまうと乳母を見上げて、
それでいいというようにまたこくりと肯いてみせた。セブルスの一連
の行動を見ていた侯爵は口許に薄い笑みを浮かべ、
「いや、本当に私はこの小さな人を見誤っていたらしいね」と呟いた。
そして怪我をしていない方の手でゴブレットを手に取り、葡萄酒を飲
もうとしてリーマスに制止された。
「温めてアルコールをとばさないとまた出血してしまうかもしれません。
あぁ、ハーブ入りのミルク酒を作りましょう。ピーター、すまないけれど、
もう一度厨房に行ってきておくれ。そうだ、小さなレディのためにお作り
するというんだよ」
 セブルスは乳母を見上げて合図し、そっと部屋を退室しようとしてい
たところだったが立ち止まり、リーマスがピーターに必要なハーブを教
えている声に聞き耳をたてた。興味のある事なので聞かずにはいられ
なかったらしい。ピーターは自分がしなければいけない事をセブルスが
してくれた事を恥ずかしく思っていたので、リーマスの言いつけを復唱
すると名誉挽回とばかりに勇んで部屋を飛び出していった。
「かわいい人よ、すまないけれどもうしばらくお付き合いいただこうか。
さぁ、こちらにいらっしゃい」
 侯爵に声をかけられてセブルスは一瞬迷う様子を見せたが、おとなし
く暖炉の傍に戻ってきた。
「今日は驚かせてしまったね。そして世話をかけた」
 侯爵はあらためてセブルスに礼を述べたが、セブルスは、シリウスが
セブルスの小さな手を取って自分の隣に座らせてから黙って首を横に
振ることで答えた。シリウスは乳母にも近くの椅子に座るように言い、
父親が飲もうとしていた葡萄酒を呷った。ひどく喉が渇いていたし、そ
の事に今まで気づかないくらい動揺していたのだが、傍らのレギュラス
がお気に入りのセブルスに話しかけようともせず、血の気の引いた顔で
黙り込んでいるのに気づき、
「お前も飲むか」と声をかけた。セブルスも心配そうにレギュラスの顔を
見、リーマスを見やった。リーマスはレギュラスの様子を見て、
「君は葡萄酒を飲んだ方がいいね。ずっとお父上が心配で気を張りつめ
ていたんだね」と優しく声をかけた。
「父上は…」レギュラスは目の前の侯爵に視線を合わせることなく、リー
マスの色素の薄い眸を見つめた。いつになく縋るような視線だった。
「大丈夫だよ。出血は多かったようだけれど、傷は浅い」
リーマスは医者らしい人を安心させる優しい口調で説明し、レギュラス
も黙って聞いていたが、表情は冴えないままだった。
部屋の静寂を破って、再び扉を叩く音がしたので皆の間に緊張が走っ
た。侯爵とセブルスは泰然としていたが、乳母はすぐにセブルスの傍に
駆けつけられるように身構えたし、ブラック兄弟は顔を見合わせた。
「誰だ?」シリウスが鋭い声で誰何すると、「私です!」とピーターの声
で返事があった。皆が安堵の吐息をつく間もなく、ミルク壷やハーブの
入った籠、鍋を抱えたピーターとともにジェームズが入ってきた。一度
客間に寄って着替えたのか外出していた気配はなく、手にゴブレットを
いくつか持っている。いつも通りの明るい表情だ。
「ジェームズ!」セブルスは素早く立ち上がると、ジェームズの元にぱ
たぱたと走っていった。ジェームズは、「ただいま、ちょっと待ってね」と
言ってゴブレットをテーブルに置くと、おもむろに腰を屈めセブルスの頬
に両手をあて、毎日可愛らしいと賞賛している小さな顔を愛しげに見つ
め、聡明さが表れている額に口づけた。セブルスがジェームズの首に
細い腕でしがみついたのでそのまま抱き上げて、侯爵の前まで行き
挨拶した。
「遅くなりまして」
恭しい態度のジェームズに、
「いや、私が突然押し掛けてきたのだ。まさかこんな事になるとは思わな
かったのだがね」と侯爵は穏やかに答えた。
「誰の仕業かわかっているのですか?貴方に射かけるなんて一体誰
が」
まわりくどいことを言わず率直にジェームズは質問した。
「心当たりはありすぎるね。しかし、おそらくただの脅しだろう。私が英国
にいると邪魔な人間がいるらしい」
侯爵の声は落ち着いていて、自分のことを話しているのに他人事のよう
な無関心さがあった。
「それはそうと、私は今、初めてこのかわいい人の声を聞いたよ。君の
名だったね」
 シリウスとレギュラスは自分たちが初めてセブルスの声を聞いた時も
ジェームズの名だったことを同時に思い出した。セブルスにとってジェー
ムズはやはり特別なのだ。ジェームズは自分の胸元のセブルスの小さ
な顔を愛しげに覗きこんだが、セブルスは耳をジェームズの胸にあてて
じっとしていた。セブルスはジェームズが座っても膝に乗り、胸に耳をあ
てたままでいたが、リーマスがミルク酒を作りかけると、興味をそそられ
た様子でジェームズの膝を降りてリーマスの傍に行き、作業を見守った。
「このかわいい人の機転がなければ、私は今頃出血多量でこんな風に
座っていられなかっただろう」
侯爵がジェームズに話しかけると、ジェームズは微笑んだ。
「セブルスは人を助けずにはいられないんですよ。そういう子なんです」
その声には自慢と心配が含まれていたが、セブルスは隣に座り、自分
の分のゴブレットのハーブ入りのミルク酒の匂いを嗅いでいた。自分の
事が話題になっていても興味がない風だ。ハーブ入りのミルク酒は、リ
ーマスが全員飲んだ方が良いと言ってたっぷり拵えたので、乳母もピー
ターも相伴に預かっていた。温かいミルクとハーブは緊張を解し、安眠で
きるということだ。リーマスの説明をセブルスは熱心に肯きながら聞いて
いた。ジェームズが熱いので舌を火傷するといけないと、ふうふう息を吹
いて冷ましてやると、おそるおそるゴブレットに口をつけた。火傷を恐れて
いるわけではなく、味を確かめたいからだ。
侯爵はミルク酒を少しずつ飲みながら、セブルスとジェームズの仲睦まじ
い様子を見つめ、それから自分の息子達を見たが、何を考えているのか
は窺い知れなかった。

(2015.12.10)

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