鹿と小鳥 第62話

 厨房頭のジョンは、リーマスの助手のピーターが厨房に来て、飲み
物と軽食をシリウスに頼まれたので至急用意してほしいと言われた
時、特に不審さを覚えなかった。ピーターはリーマスの助手だが、シ
リウスの小姓的な雑用も引き受けているのを知っていたからだ。
シリウスとセブルスはマルチーズたちを追いかけて厨房に来てから
というもの乗馬のレッスンの後で厨房に寄るようになっていて、ポッ
ター伯とレギュラス、ピーターやセブルスの乳母も一緒に来ることも
あった。レディ・セブルスは大変な人見知りということで、まず召使い
が先触れにくるのだが、大抵はマルチーズたちも一緒に厨房に駆
け込んできては、ジョンに肉を要求する。畏れ多くも国王陛下から
小さなレディに下賜されたというやんごとない犬達はジョンを自分た
ちの餌係だと考えているらしかった。
ジョンはただちに厨房にいる者たちを外に出し、マルチーズ達に肉
を与えると、一人でエールやシードルなどの飲み物と簡単な食事
を準備した。そして主人一行が現れると給仕もこなす。よけいな仕
事が増えているのだが、主人と直接話ができるのでジョンは面倒
だと感じてはいない。それにジョンは主人が特別扱いを屋敷中に
命じた小さな客人がひそかに気に入っているのだ。たいそう内気な
性格で召使い達のほとんどが声を聞いたことがないほどなのだが、
ただのおとなしい令嬢ではないことは、初めて厨房に現れた時に
すぐわかった。ひどく寡黙でいて、切れ長な黒い眸は好奇心に輝き
何とも不思議な印象を気づいた人にだけ与えるのだ。翌日か次に
厨房にやって来た時は、ポッター伯も一緒だった。ポッター伯は
レディの後見人であり、遠縁の間柄ということだが、まるで妹か娘
のようにレディを溺愛し、付きっきりで面倒をみているらしい。
実際、ジョンもポッター伯がレディの帽子や髪を直したり、食事の
世話を焼いているのを間近で見て少しばかり呆れている。
ポッター伯が竃に興味を示し、ジョンに質問してきた時のことだ。
この屋敷の竃は上に鍋を置いて調理ができるのでとても便利で、
卵料理や温かい料理を楽に作ることができる。主人の話によると
この屋敷の他は宮廷にしかないということだったが、ポッター伯
もひどく感心してジョンに質問してきた。ポッター伯は気さくな人
柄なので、ジョンも気軽に答えていたのだが、黙ってポッター伯
の隣でジョンが炙ったチーズをのせたパンを食べていたレディが、
ポッター伯をちらりと見上げた。するとポッター伯はレディに頷い
てみせた。その二人の目のやりとりでジョンは、レディが竃に
注目してポッター伯に報告していたことを察したのだ。この小さ
レディは豪華な人形みたいな見た目だが、どうやら中身は違うら
しい。

「とりあえずこれでいいかな?」
ジョンが葡萄酒やチーズ、ハム、パンを大きな盆に用意すると、
ピーターは礼を言ってから両手で持ち上げた。
「侯爵がこちらにお出でになるなんて私がここに勤めるようになっ
てから初めてだよ」
さりげなくジョンは探りを入れてみた。どうせ何日かすれば屋敷
中に噂が広まるのだが、ブラック侯爵がこの嫡男の屋敷を訪れ
たことは今まで一度もなかったので、突然侯爵がやって来たと
聞いて内心驚いたのだ。外国に暮らしているという事情もあるだ
ろうが、母親の侯爵夫人も来た事がない。高貴な一家というもの
は庶民とは違うということなのかもしれないが、シリウスは弟のこ
とは庶民の家族同様に大切にしているので、両親と単に不仲なの
かもしれない。
「遠乗りをしていて息子の家に寄ろうと急に思いつかれたそう
ですよ」と答えがかえってきた。ジョンはそれ以上の詮索は控え
ることにした。いずれ、明らかになるだろうと思ったからだ。
「珍しいこともあるもんだね。おや、今日は腰につけている香り
玉をつけていないんだね」
 ピーターはセブルスやシリウスと来る前から、自分の食事を取り
に来たり、リーマスの食事を頼みに頻繁に厨房に出入りしている
ので、ジョンともすっかり顔馴染みなのだ。香り玉はベルトとともに
レディからピーターに下されたものでピーターはもらって以来ずっと
身につけていて、人から訊かれると嬉しそうに説明している。
ピーターははっと自分の腰を見て、
「あっ、リーマス様のお手伝いをしている時に痛がる患者に嗅がせ
て、忘れてしまった。後で取りにいかなくちゃな。あれはセブルス
様が作られた香り玉で効き目抜群なんだ」と焦った声を出した。
「とりあえず、今は急いでこの盆を運べよ。足りなかったらすぐに
言ってくれ。レディも侯爵とご一緒なんだろう?今日はあの方もここ
にお出でにならなかったからおなかがお空きかもしれない」
ピーターはそうだね、と明るい声で返事すると、急ぎ足で厨房を
出ていった。
 ピーターがシリウスの居間の扉を叩いて名を名乗ると、すぐに
「入れ」と声がかかった。声の主はシリウスだ。ピーターが足音を
忍ばせて部屋に入ると、暖炉近くの寝椅子に侯爵が悠然と座
り、両脇の椅子にそれぞれシリウスとレギュラスが座っていた。
美男美女で知られるブラック一族の男たちは、よく似た美しい顔
を揃えて向かい合っていたが部屋の空気は緊張し、重苦しかっ
た。侯爵の顔は平常の表情だが血の気が失せて白く、レギュラ
スは病気ではないかと案ぜられるほど蒼白だった。
「誰にも気づかれなかったな」
シリウスに問われ、ピーターが硬い声で「だいじょうぶです」と答え、
彫刻が施された机に厨房から運んできた食料や飲み物を並べ
た。
「葡萄酒をもらおうか。喉が渇いた」侯爵の声は穏やかだった。
ピーターがびくっと震えたので、口許で微笑って「深呼吸しなさい。
手が震えていては葡萄酒をこぼしてしまう」と注意した。
「リーマスはまだですか?」
不意にレギュラスが口を利いた。
「使いを出したから直に戻るはずだ。今日はジェームズと出かけて
いるんだ」その事はレギュラスも承知しているのだが、シリウスは
弟に努めて優しい口調で説明した。普段は兄のシリウスよりも弟
のレギュラスの方が冷静で年上に見えるのに、今日のシリウスは
年長者らしく見えた。
その時、再び扉を叩く音がしたので、部屋にいる者たちの間に緊張
が走った。
「誰だ?」シリウスが鋭い声で誰何すると、扉がそっと開き、セブル
スの小さな顔が覗いたので、ピーターは吃驚して、
「セブルス様!」と声をあげてしまった。セブルスはするりと部屋に
滑り込み、その後ろから籠を下げた乳母が入ってきた。扉の傍で
乳母は深くお辞儀すると「すぐに包帯をお作りいたします」とだけ言っ
て、その場に座り、籠から布を出してきて手早く裂き、包帯を作りだ
した。セブルスは乳母の傍に立ち、その作業をじっと見つめている。
呆然としていたピーターがはっと我に返り、乳母のところにクッション
を持って行ったり、セブルスを暖炉の傍に連れて行こうとすると、セブ
ルスは手振りでそれを断り、乳母の傍を離れなかった。瞬く間に包
帯が出来上がったところに、ちょうどリーマスが到着した。
「遅くなりました」
リーマスは扉のところにいるセブルスに気づくと「ジェームズは少し
遅くなるよ。僕だけ急いで帰ってきたんだ」といつもの優しい声で
話しかけた。セブルスはリーマスを見上げ、こくりと頷くと乳母が
作った包帯を手渡した。リーマスは少し驚いた表情になったが、
セブルスの髪を軽く撫で「ありがとう」と声をかけてから、侯爵の
前に歩いていった。
「忙しいのに、呼び立てて済まないね」ブラック侯爵は宮廷にい
る時と変わらない優雅な雰囲気だった。
「出血は?」リーマスが問うと、シリウスに目配せされてピーター
がぎくしゃくした足取りで扉に向かった。侯爵が片手で上着を脱ぐ
とシャツの左腕が血に染まり、二の腕の上部が紐で縛ってあった。
「止血は出来ている」
そう言ってから、侯爵は振り向いて乳母に寄り添うように立ってい
るセブルスに視線を送った。
「あの小さなかわいい人のおかげだ」
侯爵の膝には香り玉が置かれていた。 


(2015.11.2)

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