鹿と小鳥 第61話

 リーマスは自室で昼間客間でセブルスに見せた書物や医術の道具を
片づけていた。今日は一日中雨が降っていたので、セブルスはほぼ日
課になっている乗馬レッスンができず、リーマスもめずらしく患者が来な
かった。それでリーマスはピーターと一緒に客間に顔を出して、セブルス
に病気や薬について教えようと申し出たのだった。セブルスはリーマス
の提案を大いに喜んで承諾した。リーマスの話は、もちろん子どもにも
理解できるやさしい内容だったが、セブルスは黒い眸を好奇心で輝かせ
て熱心に聞き入っていた。ずっと前からリーマスの医者としての仕事にひ
そかに強い関心を寄せていたのだが、ジェームズがセブルスを病人と接
触させることをひどく嫌がるので今回のシリウスの屋敷を訪問でもリーマ
スの部屋を訪ねられずにいたのだ。セブルスとしてはシリウスの屋敷に
行けばリーマスの診察風景を見ることもできるのではないかと考えていた
ので内心がっかりしていた。ジェームズは子どもに病気や貧しさは毒だと
信じこんでおり、セブルスにも事あるごとにそう言い聞かせている。それで
いて、セブルスのほんのちょっとした体調不良にも過剰に心配してはすぐ
にリーマスを呼ぶので、セブルスの健康に関してはこれも心配ばかりして
いる乳母にまで呆れられているのだった。
 リーマスが書物を読んで聞かせたり、医療器具の使い方を教えるとセ
ブルスは知的好奇心をすこぶる刺激されたためか、いつもの大人しさが
消え、ジェームズの苦い表情などお構いなしに積極的にリーマスに質問
したり、大胆に医療器具に自ら触ってみたりしていた。
シリウスはリーマスのすることには大抵賛成するのだが、その授業の
様子を感心して見守っていたし、レギュラスは物静かに興奮してい
るセブルスの様子を見つめていた。ピーターはいつものようにリーマス
の助手を務めていて、セブルスの貴族の娘としては異例の医学、科
学的な話への強い興味に驚いたが、とてもセブルスらしいようにも思
えるのだった。
 不意に扉をせっかちにノックする音がしたのでリーマスは扉に視線
を向けた。廊下を歩く靴音が聞こえなかったところを見ると少しの間
ぼんやりしていたらしい。
「俺だ」リーマスの返事を待たずに手燭を持ったシリウスが部屋に
入ってきた。夕食の後もジェームズやレギュラスと酒を飲んでいたの
で頬が紅潮し、蝋燭の灯りに照らされた美貌はいつもよりやわらか
な雰囲気だ。シリウスが持ってきた手燭を机の上に置かれている
燭台の傍に置くと部屋が少し明るくなった。
「やぁ、どうしたんだい」穏やかな口調でリーマスが問いかけると、
「いや、何となく話がしたくなってな」
シリウスは使用人に聞かれたくないと自分が判断した話題はリーマス
の部屋で話すことにしている。勝手知ったるというよりは自室より落ち
着きを覚えるリーマスの部屋の微かに薬草の匂いが混じった空気を
肺に吸い込むと穏やかな気分が身体中に巡るような気がした。机の
上にはセブルスが土産に持ってきた丁字を刺した林檎が飾ってあっ
た。シリウスがセブルスに追加を頼んだ分は既に丁字を刺されて、
乾燥の工程に入っていて、毎日セブルスが適した位置に移動させて
いるのでポッター伯一行が帰る頃にはこの机の上に加えて飾られる
ことになるはずだ。
 シリウスは椅子に腰掛けてリーマスの片づけている様子を漫然と
見守っていたが、
「セブルスはお前から医学の話を聞くのがおもしろいみたいだな。
昼間、ずいぶん熱心に話を聞いていたし、質問までしていたから
驚いた。普段ならろくに返事もしないのに」
そんなことを言い出したシリウスにリーマスは微笑んで頷いた。
「あの子は知的好奇心が旺盛なんだ。すごく恥ずかしがり屋だけれど
ね。マルチーズたちが船酔いするから帰りは酔い止めを飲ませた
らどうかと訊かれて返事に困ったよ」
セブルスの普段の態度を恥ずかしがり屋で片づけていいものなの
だろうかとシリウスは内心思ったが、
「リーマスは人間の医者だからな。大体、あの食い意地の張った
犬たちがおとなしくうまくもない薬をのまないだろう」と答えた。
「あの子なりに心配しているんだよ。そういえば、あの子はもう休ん
だんだろね?さっき客間で別れた時、眠たそうにしていた」
「あぁ。ああ見えてまだ子どもだからな。ジェームズが抱えて寝室
に連れて行ったよ。風呂に入りたくないと愚図っていたな」
リーマスはまたくすりと笑った。
「ジェームズは昔から風呂好きだものね」
「ちょっと洗いすぎじゃないかと思うけどな。でもセブルスも犬もあいつ
がしょっちゅう風呂に入れているから清潔なんだろう。風呂の入りすぎ
は健康を害すると言われているがやっぱりきれいにしている方がいい
みたいだな。ジェームズは丈夫だし、セブルスも見た目はひ弱そうでい
て病気にかからないものな」
シリウスの意見にリーマスも賛成だというように頷いた。
「あの子は少しずつ健康になっていっているよ。君の乗馬指導もよい影
響を与えていると思う。習慣にするといいんだけどね」
「セブルスはもうほとんど馬を乗りこなせるようになっているぞ。運動神
経がいいというわけではないんだが、人の説明をよく聞いて真面目に
練習するし、動物が好きみたいだな。ジェームズは馬鹿みたいに過保
護にしているが、一体何を考えているんだかわからん。乗馬も危険だ
から本当はやらせたくないらしくて何かっていうと練習の邪魔をしてくる
んだ。セブルスは怖がらずに障害の練習もしたがっているのに」
シリウスは美しい顔に苦笑いを浮かべたが、練習の邪魔ばかりしてく
るジェームズの事をわりと本気で疎ましがっている様子だ。
「セブルスのことが可愛くて仕方ないんだよ」
リーマスの取り成しに、シリウスはくいっと片眉を弓なりに吊上げて
見せた。
「まぁな。なぁ、セブルスをここに招待したのは本当はジェームズを来
させたかったんだろう?」
急に話題を変えてきたシリウスに、リーマスは、
「うん」と短く肯定した。シリウスはリーマスからセブルスを屋敷に招待
して欲しいと頼まれた時、深く詮索せずに承諾した。リーマスの頼みは
何でも叶えてやりたい一心だったのだが、そろそろリーマスの本心を
聞かせてもらいたくなったらしい。
「きみにはちゃんと話をするつもりだったんだよ。何となくジェームズは
ここに来たがらない気がしていてね。セブルスと一緒なら来ると思った
んだ」
 その時、また扉を叩く音がした。リーマスが誰何するとピーターだっ
た。入室の許可を得て部屋にきびきびとした足どりで入ってきたピータ
ーは何か大きな荷物を抱えていたが、予測していなかったシリウスの
姿に一瞬はっと顔を強ばらせたがすぐにいつもの表情に戻った。
「急患かい?」
リーマスの問いに、ピーターが、
「いいえ、セブルス様が」と話し出したので、驚いたシリウスが口を挟
んだ。
「セブルスの具合が急に悪くなったのか?」
先程までセブルスは元気そうだったが、子どもというものは急に熱を
出したりするものだ。
「いえ、セブルス様から荷物をことづかって参りました」
「荷物?」怪訝な表情で顔を見合わせたシリウスとリーマスに、
「御自分のガウンを、例のポッター伯爵に縁の家の娘に渡してほしいと
仰っているそうです」と荷物の中身を説明した。リーマスはセブルスの
謎めいた申し出に首を傾げたが、シリウスが特に何も考えていない軽い
口調で、
「餞別だな。ふーん、ジェームズが誂えたガウンなら高く売れるだろう」
などと言い出したので、
「セブルスにはそんなことわからないよ」ととりあえず反論した。ピーター
は何故か鼻の頭に汗の粒を浮かべ、
「セブルス様は伯爵から一家が英国を離れるとお聞きになって、旅行用
の衣装を贈ろうと思われたそうです。衣装部屋で御自分で探されてい
て、普段のセブルス様は衣装に興味を示されないので乳母が不審に
思ってお訊ねしたら、そうお返事があったそうです。僕は乳母から預
かってきたんです」と、更に説明した。
「なかなか気の利いた思いやりだな。本当にセブルスは人間らしく、
いや貴族の娘らしくなってきた。貧者へ施すのは貴族の義務だ」
シリウスがまだ酔いが抜けていない様子で軽口を叩くと、ピーターは返
事のしようがないので困った表情をしたが、リーマスはシリウスへの返
事を忘れたように荷物を見つめていた。

(2015.9.21)
 

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