..

鹿と小鳥 第58話


 船縁に両手をついて熱心にテムズ川の水面を見つめている
セブルスの華奢な肩を片手で抱き、ジェームズも流れる水を
眺めた。
「氷の祭典のことを思い出してた?」とジェームズが話しかける
と、セブルスは少し驚いた表情でジェームズを見上げ、こくりと
肯いた。川を進む船の上にいるのでジェームズの癖の強い髪は
風に煽られてふわふわと揺れ動いていて、明るい茶色の眸は
セブルスを優しく見つめている。
「川が凍りついて、皆でこの上で遊んだのだものね」
厳しい寒波で凍りつき、祭典が開催された川は、春の暖気の訪
れとともに溶けだし、再び流れ続ける川に戻った。セブルスの黒
い眸はほんの少し前の全てが凍てついていた世界の賑わいを
暗い色をして流れる川の上に幻視していた。凍りついた川の上
を犬橇に乗って走ったこと。その隣を鯨の骨でできたエッジの
ついたスケート靴を履いたジェームズが猛スピードで一緒に滑っ
た。食べ物を売る店や、見世物小屋が立ち並んで川の上は活
気のある街のようだった。セブルスはまだ行ったことがないが、
ロンドンの街の活気が凍りついた川の上に出現したようだとジェ
ームズが話していた。それが春になると跡形もなく消え失せ、今
は当たり前に流れる川を船に乗って下っているのだ。
「シリウスの屋敷はもうじきだよ」
ジェームズが教えるとセブルスは前方に目を凝らした。シリウス
の屋敷はポッター家の屋敷ともそれほど離れているわけでは
ないが、この国の筆頭貴族であるブラック侯爵家の嫡子の屋
敷ということで、新興貴族のポッター家の屋敷より宮廷に近い。
ジェームズがセブルスを連れてシリウスの屋敷を訪問するのは
初めてのことだが、少なくとも一週間は滞在する予定にしてい
て、例によってセブルスの衣装を日に三度着替えるくらい用意
し、三頭のマルチーズとポニーまで連れて行くことになったの
で支度が大変だった。マルチーズたちは屋形船に同乗している
が、ポニーは陸路でシリウスの屋敷に運ばれている。今回の訪
問は、シリウスに新しいブーツを作ってもらうために宮廷のシリ
ウスの居所を乳母と訪ねた際、シリウスがセブルスを自邸に
招待したのだ。セブルスはおとなしく採寸されながらも、扉に
ちらちらと視線を送っていたのだが、シリウスの申し出に驚いて
思わず乳母の顔を見て考え込んだ。シリウスが乗馬場がある
し、リーマスもいるとなおも誘うとどうやら行く気になったようだ
が、まだ首を傾げているので、
「ジェームズには俺から話をしよう」と言うと、やっとこくりと肯
いたのだ。
「靴なんて僕がいくらでも作ってあげるのに」
 後でシリウスから話を聞いたジェームズはセブルスにそう言
ったものだが、セブルスは「約束だった」と短く答えた。靴が窮
屈になったら知らせるようにとシリウスに言われていたことは
事実だが、何となくジェームズに悪い気がしているらしい。
セブルスにとってジェームズは唯一無二の存在ではあるが、
衣装や靴の過剰な装飾趣味はセブルスにとってあまりありが
たくないものなのだった。
 二人で船縁で春風にあたっていると、不意に背後で弱弱しい
犬の鳴き声が聞こえたので、セブルスは振り返り、すぐに船の
後方に座っている乳母の傍に置かれている籠のところまで
駆けつけた。
「犬達は船酔いしてしまったようですよ。いつもの元気がうそ
みたい」と乳母が苦笑まじりに言い、セブルスが膝をついて籠
を覗き込むと、三頭のマルチーズはそれぞれ哀れっぽい目を
して小さな女主人を見上げた。シリウスの屋敷を訪問すると
いうことで念入りに毛を梳られ、耳の後ろにリボンをつけて
美しく装われているが、今は三頭ともぐったりとして純白の
毛皮まで精彩を失って見える。セブルスが白く小さな手で
三頭の胴体を撫でて慰めてやると、それぞれくぅんと鳴いて
甘えた。
「陸についたら治るよ。もう少しの辛抱だ」ジェームズはそう言
ってマルチーズたちを励ました。
「あら、風にあたられたので御髪が乱れてしまいましたよ」
乳母はセブルスの額や耳の辺りの髪を手で優しく撫でて直し
た。セブルスはおとなしく乳母に身なりを整えてもらう。今日
のセブルスの髪はフードを被ったスペイン風で、真面目なセブ
ルスの表情によく似合っている。外出用の春のマントは下に着
ているガウンとブーツとともにシリウスから贈られた物で、若草
色の生地に緑色の刺繍が施されていて、最初ジェームズは地
味だと不満に思ったが、セブルスに着せてみると不思議によく
似合った。セブルスは美しく装うことにはまるで無関心なのだが、
マントが軽くて動きやすいので気に入り、乳母もマントとガウン
の色合いとシンプルなデザインがセブルスの個性をさりげなく引
き立てていると感心した。信心深い乳母はシリウスの美貌を何
か罪深いもののように考えていたのだが、採寸の際、シリウス
からスカートの丈やボリュームについて意見を求められ、しかも
乳母の意見が全面的に取り入れられて衣装屋に注文されたの
で、シリウスに対する印象が劇的に良くなったのだった。
ジェームズもセブルスがマントを羽織った様子がとても可愛ら
しかったので考えを改め、シリウスに敬意を表して今回の訪
問に着せていくことにした。
「船着場が見えてきたよ。シリウスとレギュラスが立っている
な。さぁ、降りる準備をしようか」
ジェームズがしゃがんでいるセブルスに手を貸して立たせると、
セブルスはジェームズの肘に手を入れて、見上げた。澄んだ
黒い眸がジェームズを見つめる。
「今日は特別きれいで、いつも通りかわいい」ジェームズは優
しく囁くと、セブルスはちらりと後ろを振り返った。
「大丈夫。お土産の入った木箱は従者が持ってくるよ。喜んで
くれるといいねぇ」
セブルスはジェームズを見上げて、こくりと肯いた。

「おっ、ポッター家の屋形船が見えてきたぞ!」
船着場で弟のレギュラスと召使い達とともにジェームズとセブ
ルスの到着を待っていたシリウスは、目敏く遙か前方からこち
らに向かってくる船を見て叫んだ。ざわざわと私語を交わして
いた召使い達は素早く整列し直し、客を迎える準備をした。
今日のブラック兄弟は同じ黒に銀で総刺繍が施されたダブレッ
トにベレを被り、ブラックの名の通りの出で立ちだったが、飾り
立てない分余計に兄弟の美貌が際立って見えた。シリウスは
あえて着崩し、レギュラスは正しく着付けているがそれぞれ
美しい。侍女達、男の従者たちまで高貴な主兄弟を眩しげに
見つめていたが、本人達は自分の美貌に無関心だ。
「ジェームズが立っていますね。おや、レディの顔も見える。
今日はスペイン風のフードを被っていらっしゃる」
「本当だ。ポニーと荷物はさっき届いたから身軽な筈だが、
結構荷が載っているようだな。リーマスも急患が入らなけ
ればよかったのにな。往診をすませたらすぐに戻ると言って
いたが…。そうだ、もう一度注意しておく。レディ・セブルスは
とても内気なのでじろじろ見ないようにしろ。怖がるといけな
い」
シリウスの訓戒にレギュラスも真顔で同意し、召使い達は深
々と頭を下げて応えた。

(2015.4.4) 

inserted by FC2 system