鹿と小鳥 第59話

 シリウス・ブラックの屋敷で厨房頭を任されているジョンは、他の使用人
たちが出払っている隙に、ちょうど一休みしようとしているところだった。
こっそり取っておいた豚のしっぽの皮を剥いて鉄串に刺して暖炉で炙る。
豚のしっぽは炎に炙られて、すぐに脂がジリジリと音を立てて下に伝い落
ち、鼻を擽る芳ばしい香りが漂い始めた。ジョンは樽からエールをジョッ
キになみなみと注ぎ、椅子に腰掛けて豚のしっぽの焼き具合を見守りな
がらエールを飲み始めた、その時だった。けたたましい吼え声とともに
白い塊が厨房に飛び込んできた。白い塊は三頭の犬で一目散に暖炉ま
で走ってくるとぴたりと止まり、炙られている豚のしっぽを物欲しそうに見
つめた。ジョンは犬たちを追い払おうとしたが、この犬たちがこの屋敷に
滞在中のレディ・セブルスの愛犬たちで、しかも畏れ多くも国王から下賜
された犬たちであると主シリウスから説明されたことを思い出し、舌打ちし
た。犬達は素晴らしい毛並みをしていたが、どこを走ってきたのか少々薄
汚れて床に近い毛が灰色になっている。仕方ないので肉のついた骨でも
与えようかと考えているところに、新たな闖入者が現れた。羽飾りのつい
た帽子を被り、濃い緑に薄い緑で総刺繍が施されているガウンを着た小
柄な少女がぱたぱたと軽い足音を立てて厨房に走りこんできたのだ。
「これは、これは…」
咄嗟にジョンは椅子から立ち上がった。姿を見たことはなかったが誰かす
ぐにわかったからだ。この少女はレディ・セブルスに違いない。たいそうな
人見知りで使用人たちは直視することを禁じられているが、とりあえずジ
ョンは右手を胸にあて頭を垂れた。レディ・セブルスはジョンの傍でぴたり
と立ち止まった。そしてスカートを両手で摘むと宮廷風に片膝を曲げて軽く
お辞儀した。ジョンがどうしたものかと困惑しているところに、
「やっぱりここにいたのか?」後からついてきていたらしいシリウスがのん
びりとした足どりで厨房に入ってきた。レディ・セブルスはシリウスを見上
げ、こくりと頷く。
「おっ、豚のしっぽじゃないか。うまそうだな。エールを出してくれ。レディに
はシードルだ。乗馬の練習をしていたので喉が渇いた」
ジョンは内心憤慨しつつも、こんがりと炙られた豚のしっぽと塩、エールと
シードルを用意した。レディの黒い眸が焼きあがったばかりの干葡萄入り
のパンに注目しているのに気づいたシリウスが一きれ切って、チーズを焼
いて載せて差し上げろと命じたので、切ったチーズを串に刺し、暖炉の炎
で軽く炙ってとろりとしかけたところでパンに載せた。レディはシリウスが
自分の傍においたスツールに手を貸されて腰掛けたが、こじんまりとした
様子をしている。軽やかな春の装いをしているが首元にはジョンが値を想
像することもできない真珠のネックレスをしている。この中央にPの金文字
がついているネックレスがセブルスのトレードマークだということはしがな
い料理人のジョンも噂に聞いて知っている。レディ・セブルスは小さな両手
で持ったパンの上のチーズの香りをくんくん嗅いでからおそるおそる口を
つけた。一口食べて味が気に入ったらしく安心したように食べだした。
「熱いから気をつけないと口の中をやけどするぞ。シードルも飲みなさい」
シリウスが声をかけるとレディは、素直にパンをテーブルの上に置き、シー
ドルを飲んだ。両手でゴブレットを持ち、こくこくと飲む様子は見た目より幼
くかわいらしい。シリウスは香ばしく焼けた豚のしっぽを齧りながら、レディ
の乗馬がずいぶん上達してきた、もう少しすれば遠出もできるだろうとレデ
ィに話しかけた。レディは黙々とチーズの載ったパンを食べていたが、シリ
ウスを見上げてこくりと頷いた。表情には出ていないがどことなく嬉しそう
な様子だ。シリウスの足元で犬たちがキャンキャン吠え立てて騒いだの
でシリウスは煩そうだったが、ジョンに何か肉を与えるように指示した。
ジョンがローストしてある骨付き肉を与えると、やっと肉をもらえた犬たち
は一心不乱に食べだした。レディは黙々とチーズの載ったパンを食べな
がらもシリウスの話に耳を傾け、黒い切れ長の眸で部屋の隅々に視線を
さ迷わせては、足元の犬たち、暖炉脇に吊るされている肉の塊や魚の塩
漬け、エールやシードルの樽、パン窯や煮炊き専用の竈を興味深そうに
見ている。おとなしそうな見た目と違い、好奇心が旺盛なようだ。
ジョンはちょうど薪を抱えて厨房に帰ってきた小僧に、口に指をあてて騒
がないように合図し、ついでにしばらく扉の前で人払いをしておくように小
声で命じると小僧は怯えた表情で頷きそっと出て行った。
 この数日、ポッター伯爵一行が到着してからというものジョンは料理の指
揮に大忙しだった。いや、正確にはポッター伯爵一行の訪問が決まって
からというものジョンは連日のように厨房までわざわざやってきて客に振
舞う料理について指示を出すブラック兄弟の対応に追われていた。ポッ
ター伯爵といえば、シリウスの親友であることはジョンも知っているし、
以前はよくこの屋敷を訪れていたので、何度か顔を合わせたこともある。
ポッター伯爵は、若く才気に溢れ、陽気な人柄で使用人にも気さくに話し
かけてくれるのでこの屋敷内の使用人たちの間の評判も上々だ。
問題は今回ポッター伯が伴ってくるという小さなレディのことだった。
ポッター伯の遠縁にあたるということだが、現在はポッター伯に養育され
ているらしい。セブルスという変わった名前の持ち主だが、変わっている
のは名前だけではない。このレディ・セブルスは幼いというのに薬草に造
詣が深く、昨年の流行病が蔓延した折には、この屋敷の主であるシリウ
スの手当てをして、病に効く薬草を大量に分けてくれた。そのおかげでシ
リウスとすでにこの屋敷で発症していた使用人たちの多くの命が助かっ
たといっても過言ではないのだ。無論、ルーピン医師による看護があって
のことだが、レディ・セブルスはこの屋敷の多くの者たちの命の恩人とも
いえるのだった。
 そして、女の使用人たちが騒いでいるのはシリウスとの縁談だ。公式の
話ではないようだが、シリウスの母であるブラック侯爵夫人が話を勧めて
いるということだ。シリウスは男のジョンから見てもたいそうな美丈夫で
屋敷中の女達が憧れているといっても過言ではない。実際、シリウスの
気まぐれで手がついた侍女が何人もいる。もっとも去年の病以来、シリウ
スは心境の変化があったのか色事に興味を失ってしまったようで、たまに
宮廷からこの屋敷に戻ってきても、ルーピン医師と弟レギュラスと和やか
に過ごすか、気晴らし狩猟に出かけるくらいで落ち着いた生活を送ってい
る。ポッター伯とシリウスは親友同士であるし、シリウスもそろそろ身を固
めてもいい年頃なのでよい組み合わせなのかもしれないが、女の使用人
たちは気になって仕方ないらしい。
ジョンは厨房での喧しい噂話でその縁談は知っていたが、ブラック兄弟と
話しているうちに、シリウスの弟レギュラスもセブルスにかなり夢中なこと
に気づいた。レギュラスはシリウスとよく似た美貌の持ち主だが、シリウス
の傲慢さはなく、物静かな人柄で、憧れている女達も多いが皆遠巻きに
見つめている。もっともジョンは以前レギュラスが持ち込んださる仏蘭西の
伯爵夫人のレシピによるチーズケーキを作った時の、穏やかな口調だが
念入りにして徹底的な駄目だしから、表面とは違う性格を持ち合わせてい
ることを知っていた。そして、レギュラスという人物の本質に触れる機会が
去年の流行病時にあった。ジョンは屋敷内で罹患者が出た時点で逃げよ
うとしていたのだが、自分が倒れてしまったのだ。寝台で独り高熱に魘さ
れているところにルーピン医師と助手のピーターが現れた時には二人に
後光が射して見えたものだ。ジョンは屋敷内の広間に運ばれ、他の病人
と一緒に寝かされた。そこで治療を受けたのだが、意識がしっかりしてき
た時、湯を運んできた下男と思っていた男がレギュラスだと気づいて驚愕
したのだ。レギュラスは仏蘭西からわざわざシリウスを見舞いに戻り、閑
散となっていた屋敷の状況を察して自らルーピン医師を手伝い始めたの
だという。貴公子が上着を脱ぎ、シャツ一枚で井戸から水を汲んだり、薪
を割ったり、竈で沸かした湯を木桶で運ぶ姿に屋敷に隠れていた使用人
達も驚きのあまり正気に戻り、それぞれの持ち場に戻ったのだった。シリ
ウスが快癒してしばらく静養した後、ブラック兄弟がルーピン医師を伴って
ポッター家の領地に出かける際にはレギュラスは美麗な貴公子そのもの
の佇まいに戻っていた。ジョンは主一行を見送りながら、レギュラスとル
ーピン医師には一生頭が上がらないと思ったのだ。そのレギュラスが、今
回の客人を迎えるにあたってレディ・セブルスの食の嗜好について常にな
く熱の籠もった口調で詳細にジョンに説明したので、ジョンとしても謹んで
傾聴せざるを得なかった。レディ・セブルスはかなり偏食であるらしい。
肉も魚も淡白なものしか口にしない。野菜のポタージュ、卵料理、乳製
品、とりわけヨーグルトやレモン風味のシラバブを好み、胡桃などの木の
実やレーズンなどのドライフルーツ、果物のジェリーも好きだが、食べる量
は多くない。話からすると小鳥か栗鼠のような嗜好をしているようだとジョ
ンは思った。
シリウスはセブルスの好きそうな物は全部用意し、なおかつ何故かルーピ
ン医師の好物の甘いものまで作るように命じてきた。しかも、自分の好き
な炙り肉も数種類出せというので、膨大な用意が必要だった。
ジョンは、菓子と肉とパンとスープとの係に厨房の人間を仕分け、食材の
手配をし、大量の石炭と薪と小枝を確保しておいた。エールとシードルは
樽で在庫があったし、輸入物の高級葡萄酒はシリウスが買い込んでき
た。ポッター伯一行の到着間近にレギュラスが薔薇やニワトコ、菫の花束
を抱えて厨房にやってきたので女達が悲鳴をあげたが、ジョンとしても手
配の手間が一つ省けて有り難かったものだ。薔薇は蒸留してフィンガーボ
ウル用の薔薇香水を作り、ニワトコや、菫はパイに入れたり、飾りに使い、
レギュラスが厨房に来た時に見せたら、めずらしく心から嬉しそうにジョン
に微笑みかけてくれたので、ジョンは内心動揺した。ブラック兄弟が準備
を見に来るたびに、厨房の女たちが興奮して騒然となる一方、珍しい来客
の準備に全員が浮き立ってもいた。それが、ポッター伯一行が到着間近に
シリウスが屋敷中の使用人を集めてポッター伯たちとの会食は非公開に
すると宣言したので、皆落胆してしまった。高貴な方々は食事風景を公開
するのが普通だ。シリウスによると、レディ・セブルスはたいそう内気で繊
細なので、人目を怖がるということだった。食事はおろか、見かけても目を
合わせないようにというお達しで使用人たちの気分は一気に沈んでしまっ
た。続けてシリウスが自分たちと同じ料理を隣の部屋に用意するので全
部皆で食べていいと言ったので仕方ないかという空気になったが、貴族と
しては異例のやり方に使用人たちは好き勝手に噂した。
レディ・セブルスはシリウスにとって特別な方なのだろうという見方をする
者や、いや、単にレディはとんでもない変わり者なのではないかという者も
いた。
ジョンは仕事中に無駄口を叩く者には容赦なく怒鳴りつけたが、自分は料
理はまず皆で腹いっぱい食べろ、売りに行くなとシリウスに禁じられたの
でがっかりしていた。骨身を惜しむ駄賃くらい稼がせてくれてもいいと思っ
たが、他の貴族よりシリウスは破格に気前がよいのだ。以前、どういう気
紛れか知らないが使用人たちの待遇を大幅に改善してくれたのでよい働
き口であることは確かで、仕事の出来る人間が簡単に集まる。
 ポッター伯一行が船で屋敷到着してからというもの、使用人たちはその
噂話で朝から晩まで持ちきりだった。シリウスに命じられていたので、レデ
ィ・セブルスを直視する者はいなかったが、レディ・セブルスは常に女達の
関心の的で同じガウンを二度着ることはないだとか、今日の髪型など見て
いないはずの情報まで正確に伝えられている。到着当初は礼拝所にポッ
ター伯や乳母と赴く姿がよく目撃されたが、すぐに天気の良い日の昼間に
ポニーに乗る姿が庭で見かけられるようになった。シリウスが指南役らし
く、見ていて声をかけたり、自分も愛馬に乗ってレディに手本を見せたりす
るので女たちの強い関心を集め、遠くから見物する者が続出している。
今日も休み時間をいいことに皆で見物していたに違いない。
また、主たちの食卓の給仕役によれば、レディ・セブルスはポッター伯が
つきっきりで世話を焼いているということだった。とても無口な少女らしかっ
たが、予想よりは食事を摂っている様子でジョンはひそかに安堵した。
今日はレディが突然現れたので驚かされたが、ジョンの作ったものを黙々
と食べている様子はとてもかわいらしく思える。
「あぁそうだ、あの持ってきてくれたりんごのやつは作るのが難しいの
か?」
シードルをこくこくと飲んでいたレディにシリウスが話しかけた。ちょうどり
んごを積み上げてある籠が目に入ったので思いついたようだ。レディはシ
リウスをちらりと見上げると、ゴブレットをテーブルに置いてからゆっくりと
した口調で答えた。
「難しくはない。丁子を刺しておくだけ」
小柄で幼げな見かけと違って意外にも落ち着いた声だった。
「リーマスが部屋に飾っておくと気持ちが落ち着くと気に入っていた。りん
ごと丁子は渡すからまた作ってくれるか?」
シリウスの申し出にレディは華奢な首を傾げて考え込んでいたが、やがて
「作る」という返事があった。シリウスはジョンに香辛料の保存庫の鍵を開
けて丁子を出すように言いつけ、自分でりんごの入った籠を取ってきた。
レディは早速りんごの品定めを始めようとしたが背が低くて籠の中がよく
見えないらしくスツールの上に立ったが、今度は足元が覚束なくて怖い様
子で、結局シリウスが床に籠を置いた。レディは籠の前に屈みこみ、真剣
な表情で小さな手でりんごを取り上げては比較検討を繰り返し、長い時間
をかけて五つ選び出した。シリウスはジョンが持ってきた丁子の入ってい
る袋に無造作に両手を突っ込み、空の壷に丁子を山盛りいっぱい入れた
ので、ジョンはもったいなさに内心震えた。シリウスはダブレットの内側か
ら銀の鎖で吊るした球形の銀細工の香り玉を取り出し、形の良い鼻に持
っていって匂いを嗅いだ。
「良い匂いだ。セブルスはこういう仕事が得意なのだな。レギュラスもたい
そう喜んでいるぞ」と、レディに話しかけた。レディは、
「それは少しむずかしい」と短く答えたが、どうやら褒められて喜んでいる
のではないかとジョンは思った。レディ・セブルスは一見無表情だが、感
情が空気に醸し出る独特の雰囲気があるのだ。ジョンはなんとなくだがそ
れがわかり始めていた。
不意に扉が開くと、レギュラスが厨房に入ってきた。
「探しましたよ」
「犬を追いかけてたらここについたから、一休みしていたところだ」
微かに非難を滲ませているレギュラスに、シリウスは鷹揚に答えた。セブ
ルスがさりげなくジェームズを探しているのに気づいたレギュラスが、
「ジェームズはリーマスと一緒に出かけましたよ。ポッター家に縁の者を
見舞うそうです」
と優しい声で教えた。
「あぁ、元使用人の。リーマスがその家の子をずっと診ているんだ」
とシリウスが答えると、セブルスは少し驚いたように黒い眸を瞠らせたが、
特に何も言わなかった。しかし、ジョンはセブルスの華奢な肩が一瞬不安
そうに震えたような気がした。
「夕食までには戻るそうですよ」
「そうか。そろそろ夕食の支度をしなければいけない時刻だな。ジョン、邪
魔をした。夕食は少し遅れてもかまわないぞ」
ジョンは恭しくお辞儀して、できるだけ時間通りに用意すると答えた。レギ
ュラスはセブルスに着替えが済んだら居間で何かして遊びましょうと声を
かけながら、優雅な仕草で手を貸した。セブルスが背の高いレギュラスを
見上げてこくりと頷いたので、レギュラスは優しく微笑んだ。シリウスがマ
ルチーズたちを追いたてながら先に厨房から出て行き、レギュラスとセブ
ルスが少し遅れて後に続いた。直後に厨房に雪崩込んできた使用人たち
に囲まれたジョンはレディ・セブルスについて質問攻めにされかけたが、
「ディナーの準備が先だ。急ぐぞ!」と一喝して蹴散らしたのだった。

(2015.5.13)

inserted by FC2 system