鹿と小鳥 第54話

 セブルスが目を覚ました時、緞帳が引かれた寝台の中は暗闇
で何も見えず、隣で寝ているジェームズの規則正しい寝息だけ
が聞こえた。毛皮つきの毛布の上に厚い羽布団がかけられてい
たので寒さは微塵も感じず、そのまま目を瞑れば、また心地よく
眠れそうだった。足下の布で包まれた焼き煉瓦もまだほんのり
と温もりが残っている。ジェームズが、痩せているセブルスが
風邪を引かないようにと寝るときも気をつけているのだ。
セブルスはそろそろと裸足の爪先で敷布の感触を楽しみながら
身体をジェームズの方に向けた。眠る時にはジェームズの脇の
あたりで横向きにまるくなっていたのだが、いつの間にか寝返り
を打って反対側を向いていたのだ。セブルスは寝入る時の定位
置に戻ると、そっとジェームズの胸に小さな手をあてた。若く健康
な胸は規則正しく上下し、セブルスの手のひらに力強い鼓動を
伝えた。
「目が覚めた?」
不意にセブルスの小さな手にジェームズの大きな手が重ねられ
た。ジェームズは悪戯を見つかったように引っ込めようとするセブ
ルスの細い手首をとって、その手の甲に優しく唇を押しあてた。
それから、腕を広げて枕代わりにしてセブルスの頭を載せて、あ
いている方の手でセブルスの髪や頬を撫でた。セブルスは無言
だったが、ジェームズの指先の感触の心地よいくすぐったさを皮
膚で感じ取っていた。
「怖い夢でも見たのかい?」
「見てない」
「今日は昼寝をしたからかな」
「そうかもしれない」
 ジェームズは淡々としているが明確な話し声からセブルスが
完全に目覚めているとわかったので、しばらく話をすることにし
た。
「リーマスとピーターは氷が溶ける前に氷の祭典を見物できて
楽しかったって喜んでたね。セブルスのために宮廷まできても
らったけど、ちょうどよかったかもしれないな。リーマスは自分
を甘やかしたりしないからさ」
 何となくリーマスの話をするとセブルスが喜ぶような気がして、
ジェームズはそんなことを話した。セブルスは、リーマスの医学
の知識を尊敬していて、穏やかな人柄に親しみを覚えているの
だ。セブルスが自分から質問したり、話をするのはジェームズと
乳母以外ではリーマスだけだ。昼間、ポッター家の居所をリーマ
スとピーター、ブラック兄弟が訪問し、愉しいひとときを過ごした
のだった。
 ジェームズの話にセブルスはこくりと頷いて、
「ピーター、興奮してた」と付け加えた。ジェームズはあははと笑
い声をあげ、
「そうだったねぇ。あの子はお祭り騒ぎが好きなんだよ。よく気が
つくいい子だけど、まだまだ子どもだね。芝居と芝居小屋の両方
に感激してたね」
「はじめて観たって言ってた」
「そうそう。役者が全員男だって驚いてたね。あの子は自分が
観た劇が悲劇だったって気づいてなかったと思うよ」
ジェームズの軽口にセブルスはくすりと微笑んだ。ピーターは
セブルスが芝居を見ていないと知るとひどく残念がって、事細か
に様子を説明してくれたのだ。セブルスはピーターが興奮して囀
る話を真面目な顔で聞き入っていたが、怪我をして芝居を観れ
ずに終わってしまったことを実はそれほど残念に思ってはいな
かった。セブルスの主な関心は植物と動物なので、橇を引いて
いた犬たちがどうなったのかひそかに案じていたのでピーターに
橇を引く犬を見なかったか尋ねてみた。ピーターはセブルスの
質問がよくわからなかったらしく、荷物を引く犬は見かけたという
返事がかえってきた。隣で二人の会話を聞いていたレギュラス
が察して、
「レディの乗った橇を引いていた犬たちは、陛下から賜ったので
しょう?」と話に加わると、「いや、お借りしてたんだ。僕たちが
氷の祭典に行くと、うちの天幕のところに連れてこられるように
なってたんだよ。前にマルチーズも三頭いただいているし、あん
まり犬がうじゃうじゃいても困るしさ」とジェームズがセブルスの
代わりに答えたが、内心ではセブルスが橇を引く犬たちのこ
とを気にしていたと知って驚いていた。
「それなら、陛下のところにいるだろ。陛下は無類の犬好きだか
らな。室内犬から猟犬まで専属の世話係がついてる」
シリウスの言葉に、ジェームズが問い合わせてみると言ったの
でセブルスはほっと安心したように溜息をついた。それから話題
はセブルスが足を捻挫したと伝え聞いた王妃から特製の湿布
薬が届けられてきたことに移ったが、セブルスに作り方を質問
されたリーマスは困った顔をした。
「王妃様は外国から輿入れされた御方だから、ご実家に伝わ
る作り方だと思うけれど…」
「国王陛下が捻挫された時はいつでも王妃様に湿布をご所望
になるそうだから、ありがたいご配慮をいただいたよ」
ジェームズが何処か自慢げに言う隣でセブルスが「酸っぱかっ
た」と感想を述べたので、一同は驚いた。
「酸っぱい匂いがしたの?」と、リーマスが確認すると、
「酸っぱい味だった。酢。あと油。薬草の種類はよくわからなか
った」とセブルスが味から成分を分析してみせたので、ジェーム
ズは真っ青になった。
「リーマス!セブルスが湿布を食べてしまったよ!すぐに胃の
洗浄をしなければ!」
興奮するジェームズを手で制して、リーマスは、
「もうセブルスの足はとっくに治ってるじゃないか。セブルス、
きみが湿布を舐めたのは王妃様の湿布を取り替えた時だね?」
と、セブルスに再び確認した。セブルスがこくりと頷くとリーマス
は苦笑してから、
「セブルスの舌に間違いはないと思う。でも湿布は舐めたらいけ
ないね。胃を荒らすことになるし、生の小麦粉が使われている
場合には毒になるよ」と優しく言い聞かせ、毒と聞いてまた興奮
しかけたジェームズを、「毒といってもお腹をこわすくらいだよ」
と窘めた。
「まぁ、何ともなかったんだからよかったじゃないか」シリウスが
珍しく取りなし、「戦場では馬の肉で湿布するというな」と思いつ
いたことをそのまま口にすると、セブルスは黒い瞳を瞠らせた。
「そうだね。生肉は非常時には湿布代わりになるね。先人の
知恵なんだろうね」
リーマスの落ち着いた声の返答を聞いてセブルスは自分のポニ
ーのつぶらな瞳を思い出して震え上がった。セブルスの動揺に
気づいたレギュラスがシリウスを嗜めた。
「兄さん、いけませんよ。小さな方に残酷な話をお聞かせするな
んて」
シリウスは素直に、
「あぁ、すまなかった。あくまで戦場での話だ。戦では人も死ぬが
馬も死ぬ。死んだ馬の有効利用だろう。そこらの馬の肉は湿布
にしないぞ」と真面目な顔でセブルスに言い聞かせた。セブルス
は馬の肉を湿布にするのは特別な場合であると理解はしたの
で、同じく真面目な表情で頷き、二人の真剣なやりとりを周囲は
微笑ましく見守ったものだ。
「馬は湿布にしたくない。馬はやさしいから」
 昼間の会話を思い出したのか、唐突にセブルスがそんなこと
を言い出した時、ジェームズもシリウスと同じくセブルスに
「大丈夫、戦場でもないかぎり馬肉は湿布にしないよ。女の人
には無縁の場所だ。忘れておしまい」と請け合った。
いつの間にか目が闇に慣れて、お互いの顔が見えるようにな
っていたので、ジェームズはセブルスの小さな白い顔を愛しげに
見つめ、冷たい頬を親指で擦ってあたためた。セブルスは、ジェ
ームズの陽気なヘーゼルの眸を見ていると少し怖さが和らいだ
気がした。
「明日はリーマスたちを見送りに行こうね。でも、朝、起きたら
まず礼拝所に行かなきゃね。ばあやの楽しみだからね。それか
ら朝ごはんだ。さ、そろそろおやすみ。」
 セブルスがおとなしく目を閉じると、ジェームズは洗いたての
よい香りのするセブルスの髪を一房指ですくい愛しげに匂いを
嗅いでから、優しい手つきで整え、毛布と掛け布団で薄い肩を
覆った。セブルスは再び身体をまるめてジェームズにぴたりとく
っついた。ジェームズはとてもあたたかく、優しい。
 セブルスは思い出していた。以前は粗末な馬小屋で凍えなが
ら一人ぼっちで寝ていたことを。藁に潜りこんで寒さを凌ぎ、靴も
靴下もなく冬でも裸足だった。暗闇が怖くて仕方なかったが、助
けてくれる人などいなかった。母が死んでから、恐ろしい目にば
かり遭っていたのだ。あの頃は、馬の息や身動きする音だけを
頼りに夜を過ごしていた。「馬に蹴られて死んでしまえばいい」と
始終言われていたが、馬たちはセブルスを蹴りはしなかった。
母と死に別れてから、ジェームズが現れるまで、セブルスを侮蔑
の目で見なかったのは馬たちだけだったのだ。

(2014.11.30)

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