鹿と小鳥 第52話

 暖炉の傍の絨毯の上で座っているセブルスが急にくわっと大きく
口を開けて欠伸をするのを見た乳母が、
「あくびをなさるときは手を口元におあてなさいまし」と注意した。
セブルスが急いで口に手を当てると、
「次にあくびが出た時でございますよ」と可笑しそうに微笑んだ。
セブルスは手を口から離すと、いつもの真面目な表情に戻ったが、
微かに頬のあたりが照れているようだった。ジェームズは、セブルス
の洗髪を行った後、用事があると言って居所を出ている。
召使い達がセブルスの髪を洗うための湯を大量に沸かし、木桶に
入れて次々に運び、また使った後の湯桶を運び出すというかなり
骨の折れる働きをしたことを労い、ジェームズが休憩の許しを出し
たので、各々、召使い部屋で休んだり、居所の外に出かけていた。
そのため、部屋は閑散として静まりかえっている。いつも騒々しい
マルチーズたちも暖炉の前に座るセブルスの傍に集まって、寝そ
べっておとなしくしていた。
今日のセブルスは襟に毛皮があしらわれた深緑の天鵞絨のガウン
を着ていて、髪は顔にかからないように耳元を編み込んで後ろでガ
ウンと同じ深緑のリボンを結んでいる。背中に垂らしている髪は腰
まで届くほど長くなっているが、ジェームズが朝晩、熱心に梳って
いるので艶々と輝いていた。先日、転倒した時にできた額の瘤は
すでにほとんど治りほとんど目立たなくなっている。
「久しぶりに髪をお洗いになったので、お疲れになったのでしょ
う。お昼寝なさいませ」
乳母がセブルスに声をかけると、セブルスは首を横に振った。
「もうじき、ドクターたちが来る」
セブルスはリーマスたちの訪問を毎日楽しみに待っているのだ。
「今日は、ドクターは氷の祭典を見物されてから、こちらにいらっ
しゃるそうですよ。きっと昨日より遅くなるでしょうから、セブルス
様は少しおやすみなさいまし。いらしたらすぐに起こして差し上
げますよ」
乳母はそう言ってセブルスを暖炉の傍の寝椅子に横にならせた。
セブルスは手に読みかけの書物を持ち、頑なに目を開けていよう
と抵抗していたが、毛皮つきの毛布を身体に掛けられ、乳母が
軽く毛布を叩いて眠りに誘うとほどなくして瞼を閉じて眠りに落ち
た。昼食後に怪我をしてからずっと控えていた洗髪をしたので、
やはり疲れていたらしい。洗い立てのセブルスの髪からは仄かに
石鹸と香草の香りが漂っている。香草はセブルスが収集している
ものを幾種類か選んでリネンの布で包んだもので、入浴や洗髪の
際に湯に浸しておく習わしになっていて、今ではポッターの香りの
ようになっているのだった。
セブルスの寝息を確認してから、乳母は元いた場所に戻り、針仕
事を再開した。セブルスのガウンの裾上げは乳母の日々の仕事と
なっている。ガウンは数え切れないほどあるのだが、乳母は着々
とセブルスのガウンの丈を短く仕上げていっており、その事はジェー
ムズをひどく嘆かせていた。
「そんなに短くしてしまったら、ブーツが丸見えになってしまうじゃな
いか!セブルスがお転婆にみえてしまうよ!」
ジェームズの抗議を乳母はいつでも一蹴した。
「裾が床に引きずるようなガウンを着ていたからセブルス様は転ばれ
てしまったのです。今回は無事でしたけれど、また転んで歯が折れ
たり欠けたりしたらそれこそ取り返しがつきません。それにセブルス
様はとてもおとなしい方ですから元気に見えるなら結構なことじゃあ
りませんか」
乳母はセブルスのことは何でもわかっているという自負を露わにして
きっぱり言い放った。乳母とセブルスは夏から数ヶ月離れて暮らして
いたし、そもそも本当は乳母ではないのだが、自分が育てた御子だ
という確信に溢れていた。それを知っているジェームズも何故か乳母
がずっとセブルスの世話をしてきたような錯覚を覚えて、乳母の剣幕
に気圧されてしまっているのだった。
 セブルスが宮廷で頭を怪我をしたという知らせは、ロンドンのポッタ
ー伯爵邸にいた乳母にもすぐさまもたらされた。知らせに乳母は仰天
し、直ちに宮廷に駆けつけた。乳母が到着した時には、侍医による
治療も、乳母と同じく駆けつけてきたリーマスの診察も済んでいて、
寝台に頭に包帯を巻かれて横たわるセブルスに、ひどく顔色の悪い
ジェームズが付き添っていた。寝室に入ってきた乳母に気づくとジェー
ムズは、
「あぁ、来てくれたんだね」と普段の陽気さからは考えられない沈ん
だ口調で声をかけたので乳母は最悪の事態の予感に震えた。
乳母がセブルスの枕元に寄ると、セブルスの小さな頭に包帯が巻か
れているのが痛々しくて堪らなかった。
「どうしてこんなことに…?」
信心深い乳母が十字を切って祈りの言葉を呟いていると、ジェーム
ズが、セブルスが部屋で犬に躓いて転んで怪我をした顛末と治療に
ついてくどくどと説明しだした。その声が障ったのかセブルスが身じ
ろいで目を覚ました。乳母の姿を見つけて、セブルスは黒い眸を瞠っ
た。乳母が優しくセブルスの黒髪と頬を撫でると擽ったそうな素振り
で顔を揺らす。
「熱くした葡萄酒」と、唐突にセブルスが言いだしたので、
乳母はセブルスの喉が乾いているのかと思い、
「喉が乾かれましたか?」と尋ねると、セブルスは首を横に振って、
「ジェームズに飲ませて」と言う。
「伯爵に?」訝る乳母に、
「ドクターにそうしろと言われた。ジェームズは瀉血した。興奮してい
たから。でも生水はいけない。熱した飲み物じゃないとだめ」とセブル
スが事態を羅列して説明した。傍で聞いていたジェームズは涙ぐみ、
「セブルスったら、僕の心配なんかしなくていいんだよ」と言い聞かせ
てセブルスの頬を親指でそっと撫でた。状況を何となく察した乳母が、
隣の部屋で待機している召使いに飲み物の用意を頼みに行くと、すぐ
に暖炉の上で葡萄酒とシードルが温められて寝室に運ばれてきた。
乳母がセブルスを抱き起こして、背にクッションを差し入れて凭れさ
せた。ジェームズは、シードルの注がれたゴブレットにふうふうと息を
吹きかけて冷ましてから、セブルスの口元に持っていき、
「ちょっとずつ飲むんだよ」と言い聞かせると、セブルスは両手でゴブ
レットを持ち、こくこくと何口かシードルを飲んだ。それから、ジェームズ
に早く葡萄酒を飲むように目で促してきた。真剣な顔でジェームズが
水分を補給する様を見守るセブルスは幼いながらも厳格な看護人のよ
うな眼差しをしていて、乳母はセブルスの無事を神に感謝したのだった。

(2014.10.25)

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