鹿と小鳥 第49話

 宮廷中が氷の祭典に移動しているので、宮殿の回廊は静まり
かえっていた。衛兵と侍女が僅かに居残っているだけで皆が戻
ってくる時間にはまだ早い。セブルスを伴ったレギュラスはゆっ
くりと歩を進めていた。セブルスの小さな手はレギュラスの手に
のせられてはいたが、豪華な毛皮のマントと二枚重ねて着てい
るガウンが華奢な身体には重すぎて若干よろよろしている。
馬車から降りたときに、重さで歩行が覚束ないセブルスの様子
にレギュラスは輿を持ってこさせようかと提案したのだが、セブ
ルスは自分で歩けると言って辞退したのだ。ジェームズならば、
そもそも過剰に豪奢な衣装を着させているのもジェームズなの
だが、セブルスを腕に抱いてさっさと歩いていくに違いない。
レギュラスはセブルスを労り、ゆっくりと歩きながら、自分がそ
んなことをしてセブルスに嫌がられたらしばらく立ち直れないく
らい傷つくだろうとひそかに考えて嘆息した。時間をかけてや
っとポッター家の居所に辿りつくと、二人はマルチーズたちに
熱烈に出迎えられた。マルチーズたちは小さな女主人の帰還
を喜び、騒々しく鳴きながら尻尾を振り立て走り回ったが、セブ
ルス曰く毎日のことらしい。ポッター家の領地では半ば野生化
するほど自然を満喫していたマルチーズたちだったが、宮殿
ではポッター家の居所に活動範囲が制限されているので些か
退屈しているらしい。しかし、白絹のように滑らかな毛並みは
取り戻していて筋肉がついて普通のマルチーズより一回り大
きくなったことだけが田舎暮らしの名残だ。
マルチーズたちは橇を引く犬たちの匂いを鋭く嗅ぎとってセブル
スの衣装の裾に鼻を付けて熱心に嗅ぎながらひとしきりぐるぐ
る廻った。しばらくしてマルチーズたちの気が済むとセブルス
は隣の部屋に着替えに行き、レギュラスは召使いに暖炉の
傍の暖かい席に案内されて温かい葡萄酒を供された。ジェー
ムズからはセブルスと一緒に夕食をとっていくよう言われてい
るから時間はたっぷりある。
暖炉で燃える薪がはぜる音を心地よく聞きながら休んでいる
と、着替えを済ませたセブルスが戻ってきた。深緑の天鵞絨地
のガウンを着ている。セブルスは自分で服を選ぶ時にはでき
るだけ地味なものを選ぶことにしているらしく、生地は上等だ
が飾りがほとんどついていない。しかし、よく目を凝らせば生地
と同じ色でセブルスの好きな薬草や花や小鳥が刺繍されてい
るのがわかる。ジェームズがセブルスの機嫌を取るためと、ほ
んの遊び心で作らせたのだ。
セブルスのトレードマークになっているPの文字のついている
真珠のネックレスは今も華奢な首についているが、セブルスに
とって装飾品ではないことにレギュラスは気づいていた。
「髪を下ろされたんですね」
 レギュラスが話しかけると、セブルスはこくりと肯いて、細い
指を髪の中に入れてほぐしながら頭をふるふると振った。結い
上げていたのが窮屈だったらしい。顔にかからないように両耳
の上あたりの髪を少し編んで後ろで緑のリボンを結んであるの
はジェームズの趣味とセブルスの妥協点のようだ。
「結髪もお似合いでしたが、おろされても素敵ですよ」
レギュラスがつやつやと肩と背を波打ち覆っているセブルスの
黒髪を誉めそやすと、セブルスは困惑した表情になった。容姿
を誉められるのにいつまで経っても慣れないのだ。宮廷の貴婦
人としては初々しさを失わないことは稀な性質だ。レギュラスは、
この風変わりな少女がとても好きだった。初めて宮殿で回廊
で出会った時、世俗から遠くかけ離れた雰囲気に心惹かれた。
今まで出会った事がない新鮮さと、昔から知っていたような矛盾
した印象を受けて不思議に思ったことをよく覚えている。
親しくなるのと、セブルスの成長が同時進行で、あの頃からす
るとセブルスは随分と活発になったし、日々教養も身につけつ
つあり、別人の趣だ。しかし、性質の根本は変わりなく、セブル
スを養育し、セブルスに慕われているジェームズのことが羨ま
しく思えてならない。
 セブルスなりに接待しなければという気遣いからか、薬草の
束や、ポッターの領地から送ってもらった種を箱から出してき
て見せてくれ、春になったら薬草園を作る計画を打ち明けられ
たのでレギュラスも真剣に聞き入り、いくつか質問をしたり、
提案をしたので思いの外早く時間は過ぎていった。
「牛攻め見たかった?」
 温めたシードルを飲んでいたセブルスに問われて、レギュラス
は微笑んで首を横に振った。セブルスはレギュラスが自分を気
遣って嘘をついたのかもしれないと心配しているらしい。
「僕は本当に熊苛めや牛攻めが苦手なんですよ。闘犬もね。
血腥くて気分が悪くなってしまう。レディの付き添いで見ない
で済んで助かりました。兄はああいうものが大好きなんですけ
どね。誘われても断っていたので、今夜は兄もジェームズと一
緒にショーを満喫していると思います」
 レギュラスが子どもの頃、両親の誘いで初めて宮廷に招かれ、
熊苛めを見て気分が悪くなってしまった話をすると、セブルスの
切れ長な黒い眸に驚きの色が浮かんだ。
「一緒ではなかったの?」
 セブルス特有の短すぎる問いをレギュラスは的確に理解して
答えた。
「ええ、僕たち兄弟はブラック家の領地にある城の一つで育て
られたんです。父は外交官で外国にいましたし、母は当時、先
王妃に仕えていましたから。まだとても若かったですからね。
僕は生まれてすぐに兄の暮らしていた城に送られたんです。
兄の乳母に妹がいて出産したばかりでちょうどよかったらし
い。僕が同じ屋根の下で一緒に暮らしたことのある肉親はシリ
ウスだけなんですよ」
 レギュラスは淡々と説明した。貴族の、特にブラック家のよう
な国内有数の大貴族の家では珍しい話ではない。
「そうそう、その熊苛めを初めて見た時、気分が悪くなって僕は
吐いてしまったらしくて、すぐに城に返されたんですよ。両親は
懲りたらしくてその後一年以上会いませんでしたね」
 実を言えば、レギュラスは熊苛めを見た時のことは幼すぎて
よく覚えていなかった。辺り一面の真っ赤な血の色と帰りの
馬車の中でシリウスが自分の膝にレギュラスの頭をのせて背
をずっと撫でてくれていたことしか記憶にない。兄が御者に「急
げ!揺らすな!」と無茶なことを怒鳴って命じていたことも覚えて
いる。
「ブラック侯爵夫人にお会いした」
と、セブルスがぽつりと言ったので、レギュラスは回想を打ち切
って現実に戻った。
「あぁ、氷の祭典で?母は王妃様のお傍に侍っていますからね」
セブルスはこくりと肯いた。セブルスが犬橇で遊んでいる様
子を見に来た国王御夫妻の一行の中にはもちろんブラック侯
爵夫人もいた筈だ。
「礼拝所の行き帰りにも会う」
 セブルスによると以前から宮殿の礼拝所の行き帰りの廊下で
ブラック侯爵夫人とすれ違うことがよくあるのだという。
「親切」
 ブラック侯爵夫人はいつでも宮廷生活に不慣れなセブルスを
気遣う言葉をかけてくれるのだ。セブルスはお辞儀をするか、
頷くくらいで、ジェームズか乳母が代わりに答えるのが常だが、
内気な少女と思われているらしく、特に会話を強要された事
はなかった。そういえば、侯爵夫人はシリウスとセブルスの縁組
みを勝手に打診したこともあったが、セブルスは興味がないの
で覚えていないのかもしれない。
「気配りの名手なんですよ、我が母上は」
 レギュラスが無意識に苦笑すると、セブルスは失言したと思っ
たのか黙り込んだ。レギュラスはセブルスの困惑に気づくと、すぐ
に表情を改めて、
「兄は母似で、僕は父似とよく言われるのですが、レディもそう
思われますか?」
と、優雅に微笑みながら問いかけた。セブルスは首を傾げたが、
内心ではますます困惑を深めた。確かにシリウスと侯爵夫人は
美貌も華やかな雰囲気もとても似ているが、シリウスとレギュラ
スもよく似ているのだ。派手なシリウスに対して、レギュラスは
穏やかで落ち着いた雰囲気ではあったが、遠目では見分けが
つかないくらいで、ただの兄弟ではなく双子でも通るくらいよく
似ている。
「お父さまは知らない」
セブルスが真顔で答えると、今度はレギュラスが首を傾げた。
「うちの父とお会いになったことはありませんでしたか?去年、
従姉のナルシッサの結婚式の時に帰国してたんですが」
レギュラスは快活に請け合った。
「でも、見たらすぐにわかりますよ、きっと」
セブルスはそうに違いないと思った。これほど美しい造形の顔は
ブラック一族以外いないといっても過言ではない。
召使いが夕食の支度ができたと二人に告げたので、レギュラスは
恭しくセブルスに手を差し出した。食卓まではすぐそこまでの距離
だったが、レギュラスにエスコートされてセブルスは歩いた。
衣装が軽いので足取りも軽やかだ。
今夜はジェームズの代わりにレギュラスがセブルスの食事の世話
を、肉をナイフで切り分けたり、皿の料理を取り分けくれることに
なっている。それが礼儀だからだ。ジェームズが隣にいてくれるの
が一番だが、レギュラスはシリウスのようにセブルスが苦手な脂
身のついた肉を食べろとか、好きなパン菓子ばかり食べてはいけ
ないと五月蝿く言ったりはしないだろうから安心だ。セブルスと
レギュラスが席につくと、羊の炙り肉をもらおうとマルチーズたちが
すでに食卓の下に待機していた。 

(2014.6.30)

inserted by FC2 system