鹿と小鳥 第40話

「よし、そのまま、まっすぐ進んでこい」
 張りのある掛け声に応えて、ずんぐりとした栗毛のポニーがぽくぽ
くと蹄の音を立てて歩いてきた。ポニーに跨り、綱を引いているのは
何と凛々しい表情のセブルスだ。三つ編みにした髪を頭に巻き付け、
手持ちの衣装の中で一番質素な緑と黒の格子柄のガウンを着てい
る。朝、セブルスの衣装を選ぶ時にジェームズは地味すぎると嘆い
て反対したのだが、セブルスはこのガウンが一番動きやすいと主張
して譲らなかったのだ。ガウンのスカートは裾が軽く捲くれてま新し
い革のブーツが覗いていた。この革のブーツは少年用のもので、実
はピーターが履いているものと同じ型だ。ポッター屋敷の最も近くに
いる靴職人を呼び寄せて、急遽、作らせたのだった。

「これ、妖精の落とし物みたいだと思わない?」
 狩りの戦利品の自慢をしていたシリウスに、リーマスが手のひらに
載せた小さなハイヒールを見せた。シルク製で真珠とリボンで飾られ
た小さなハイヒールは履き物というより精緻な工芸品のようで、足に
履くよりは飾っておく方が似合うほど美しかった。ジェームズがとび
きり腕のいい職人に作らせたものに違いない。
「これは、あのレディの?」
レギュラスがリーマスの手のひらのハイヒールを自分の手にのせて、
「本当に華奢で何と可愛らしい」と感心したように呟いている横で、
シリウスは無言でハイヒールを見つめていた。リーマスは、シリウス
が自分の話を中断されたので不機嫌になったのだろうと思って、シ
リウスに狩りの話の続きを促しかけたが、シリウスは、「そうだった
のか」と何か腑に落ちた様子で頷いた。それから、ジェームズを呼
んでくるようにピーターに言いつけた。ほどなくセブルスを胸に抱い
たジェームズがやってきたので、ピーターがリーマスの寝台の傍に
ジェームズの席を用意すると、ジェームズはセブルスを抱えたまま
座ったが、セブルスはジェームズの膝からするりと滑り降りて、絨毯
の上に座り込んだ。
「あっ、ここにセブルスは靴を忘れていたんだね」
と、ジェームズはすぐに小さなハイヒールに気づいた。振り向いてジ
ェームズを見たセブルスと頷き合うと、微笑んだ。
「ジェームズ、この靴は駄目だ。すぐに靴職人をここに呼んでセブル
スに新しい靴を作らせろ」
ひどく真面目な表情のシリウスをセブルス以外の皆は怪訝に思った
し、ジェームズも軽く受け止めて答えた。
「うん、ここに来てからセブルスはちょっと大きくなったから靴がきつ
くなってるんじゃないかと思ってたんだ。ロンドンに戻ったら新しい
靴をすぐに作らせるよ」
「いや、サイズの問題じゃない。この靴は子どもが履くものではな
いぞ。これはサロンのソファに座ってさりげなく見せびらかす為くら
いしか価値がない代物だ」
 きっぱりと綺麗なハイヒールを否定したシリウスの言葉をジェーム
ズは苦笑でかわそうとしたが、シリウスは真顔で、
「ろくに歩けない靴を履いていて、いざという時に生き延びられる
と思うのか」と宣告した。シリウスらしからぬ真剣さにジェームズも
セブルスの靴が実用的でないことは認めざるを得なくなった。
「でも、セブルスは身体も弱いし、あんまり出歩いたりしないからせめ
て綺麗なものを身につけさせてあげたいんだよ」
どうして自分はシリウスに言い訳じみたことを言っているのだろうと訝
りながらジェームズが説明したが、シリウスは静かに首を横に振った。
「外見を飾るのはいいが、男でも女でも靴は足をしっかり守れるもの
を履いておくのが鉄則だ。俺たちの階級は見た目のように優雅じゃ
ない。ジェームズ、わかってるだろ。セブルスと片時も離れずにいる
ことはできないし、いざというときにセブルスが自分の足で動けるよ
うにしておかなければ駄目だ。すぐに靴職人を呼べ」
セブルスは無遠慮にシリウスの顔をじっと見つめたが、その美しい顔
は厳しく、その奥の感情は窺いしれなかった。セブルスはシリウスが
苦手だし、シリウスも自分のことを嫌いだと知っているが、これはどう
いう意図での提案なのか。セブルスには美しいものが似合わないと
暗に言われているのだろうか。確かに、ジェームズが誂えてくれた靴
はどれも長時間立っていられないから、素早く動かなければいけない
時には脱いでしまうことにしている。セブルスはこっそりスカートの裾
を捲って靴下の汚れた爪先と踵を見た。絹の靴下にすでに何足も穴
をあけているが、ジェームズに叱られたことはない。ロンドンで靴と靴
下をたくさん新調しようと楽しそうに言われただけだ。シリウスの迫力
に圧されたジェームズがすぐに靴職人を呼んだので、その日のうちに
靴職人がセブルスの足のサイズを採寸したが、その場に立ち会って
いたシリウスが傍に控えていたピーターの履いているブーツと同じも
のを作れと靴職人に命じたので、ジェームズは嫌がったし、ピーター
とセブルス自身も驚いたものだ。しかし、出来上がってきたブーツを
履いたセブルスはその履き心地の快適さにすっかり気に入ってしま
った。立っていても、歩いていても疲れないし、靴底が厚いのでちょ
っとしたものを踏んでしまっても足の裏が痛くないのだ。シリウスは
ブーツを作ってくれたばかりか、近所からセブルス用にと気だてのい
い栗毛のポニーを手に入れてきて、乗り方を自ら教授した。ジェーム
ズはもちろん危険すぎると反対したし、レギュラスとリーマスはセブル
スがポニーとシリウスの教授の両方を怖がるのではないかと心配した
が、意外にもシリウスに教えられてセブルスはポニーに乗れるように
なった。
「君は教えるのが上手だね」
乗馬のレッスンを日陰で見物していたリーマスが感嘆した様子でシ
リウスに話しかけると、シリウスは苦笑いを浮かべたが、悪い気はしな
いようだった。セブルスがポニーから降りると、ピーターが駆け寄って
手綱を受け取り、「昨日より、早くなりましたね」とセブルスを褒めた。
セブルスは首を左右に振って、「まだまだ」という風に謙遜して見せた
が嬉しそうだ。セブルスとピーターが一緒に厩舎にポニーを連れていく
後ろ姿を見送りながら、
「思っていたよりもセブルスは上達が早いよ。ジェームズが障害の練習
の邪魔をしなければいいんだが…」とシリウスが溜息をついてみせたの
で、リーマスは可笑しそうに微笑んだ。ジェームズはポニーの足がバー
を飛び越えるには短すぎると主張して、ポニーが足をあげる前にバーを
蹴落としてしまうのだ。ポニーも驚くし、セブルスも体勢を崩してしまうか
ら危ないと何度言っても聞く耳をもたないので、障害の練習は一旦中止
している。今日も、村の見回りで練習に立ち会えないので、ジェームズは
用心して障害用のバーを持って出かけたのだった。
「昔、俺が習ったとおりに教えているんだよ。アルファード叔父上が俺に
乗馬を教えてくれたんだ。いきなり、俺とレギュラスが暮らしていた城に
ポニーを連れてきてね。面白い人だった。俺は叔父上にいろいろなことを
教えてもらったよ。レギュラスは小さかったので覚えていないだろうが、
二人とも可愛がってもらった」
「そう。僕も君の叔父様に乗馬を教わったんだよ」
さりげないリーマスの言葉にシリウスは一瞬、灰色の眸を見開いたが、
「そうだったな。リーマスは昔のことを話さないから、思い出したくないのか
と思ってた」と、呟いた。
「そんなことはないよ。辛く思えた時もあったけど、いい思い出だよ」
夕日を浴びたリーマスの顔はまだ少しやつれていたが、穏やかで美しか
った。どこか寂しげに見えるのは昔から変わらない。シリウスは眩しそう
にリーマスを見つめた。
「不思議なもんだな。俺とお前はアルファード叔父上から乗馬を習って、俺
はそれを今度はセブルスに伝えてるんだから」

(2013.8.31) 

inserted by FC2 system