鹿と小鳥 第39話

 リーマスは夢現に甘い香りに包まれているような気がして目をあけ
てみると、傍の椅子にセブルスが腰掛けているのが視界に入った。
シンプルな緑色のガウンに、髪飾りもつけていなかったが、トレードマ
ークのPの金文字を真珠でぐるりと囲んだネックレスは華奢な首で輝
いていて、セブルスは金のPを細い指で弄っているところだった。
高熱に侵されて途切れがちだった意識の中でも、セブルスがリーマス
の病床に付き添い、世話をしてくれていた記憶はある。時折、額にお
かれるひんやりとした華奢な手の優しい感触や、薬湯や白湯を飲ま
せてくれるしっかりとした手つき、的確に病状を伝える落ち着いた声
は確かにセブルスだった。リーマスが目を覚ました事に気づいたセブ
ルスが椅子から立って顔を近づけてきたので、リーマスは微笑んだ。
セブルスもほっとしたような表情で、「もう熱はほとんど下がっている」
と教えてくれた。
「ずいぶん楽になったよ」とリーマスが言うと、セブルスは軽く頷き、喉
が渇いていないかと訊ねた。温めたエールでも、スープでも、果汁でも
すぐに用意できると言う。リーマスは今は欲しくないと答えてから、
「これはセブルスが置いてくれたの?夢の中でも良い香りがしていた
よ」と寝台の傍の卓を指さした。卓の上には横半分に切ったオレンジ
の載った皿が置いてあり、新鮮な果実の香りが病人を優しく癒してく
れているようだった。リーマスが微笑むと、セブルスも口角をきゅっと
あげてこくりと頷く。少し照れているような表情だ。
「ダンブルドア様が送ってきた。良い香りだったからここに持ってき
た」
「本当にいい香りだね。ありがとう。それじゃ、ピーターもここに着いた
のかい?修道院に寄ってから、お母さんに会いに行くと聞いていたの
だけれど…」
「荷物は昨日他の人が持ってきた。ピーターはちょっと前に着いて、手
足を洗ってる。もうじきここにくると思う。ダンブルドア様の手紙を持って
きてる」
 セブルスが訥々と話していると、果たして扉をノックする音がした。リ
ーマスが「お入り」と声をかけると、ゴブレットや水差しを載せた盆を
持ったピーターがきびきびとした足取りで部屋に入ってきた。セブルス
が卓の上のオレンジの皿を除けると、黙礼して銀の盆を置き、セブル
スが持っていたオレンジの皿を受け取って盆の上に載せた。それから、
ピーターは床に膝をついて、リーマスにダンブルドアからの手紙を渡し
てから、遅参を詫びた。
「もっとゆっくりしてきてもよかったんだよ。久しぶりにお母さんに会いに
行ったのに」
ピーターは首を横に振って、リーマスの看病ができなかったことをあら
ためて詫びた。ピーターは修道院でダンブルドアに面会した後、実家
に寄って久しぶりに母子水入らずで過ごした。母は一人息子の帰宅を
とても喜んでくれ、ピーターも母の元気な姿を見て安心し、つかの間の
休暇を満喫した。貯めていた給金を渡せたばかりか、シリウスとダンブ
ルドアが別に土産を持たせてくれたので、とても母を喜ばせることがで
きたのだ。母としてはピーターが大事に扱われていることが嬉しいよう
だった。しかし、自分が休暇をもらっていた間に、まさかリーマスが病に
倒れていたとは思いもよらないことだった。ポッター館に到着して、その
ことを知らされたピーターは衝撃を受けたが、すぐに後悔した。
リーマスは自分のことはいつでも後回しにする人なのだ。傍についてい
る者が注意しなければいけなかったのだ。シリウスが流行病に倒れる
前から、リーマスは日に日に増えていく患者の世話に明け暮れていた。
思えば、ろくに睡眠もとっていなかった筈だ。決して弱音を吐くような人
でないリーマスが倒れるなど体力を限界まですり減らしていたのだ。
「医者の不養生だね。ジェームズたちに迷惑をかけてしまった」
リーマスはピーターにそう言って微笑むと、
「セブルスがとてもよくしてくれてね」
と、椅子にちょこんと腰かけているセブルスに優しい眼差しを送った。
リーマスの顔は熱の為にやつれて、青白かったが、眸は相変わらず
澄みきっている。セブルスは静かに首を横に振って謙遜したが、ピー
ターはシリウスに的確な手当を施したセブルスの事をダンブルドアが
誉めていたと伝えると、照れくさそうに眉間に皺を寄せた。後でピータ
ーが届けてくれたダンブルドアからの手紙を読もうと思っていたところ
だったのだ。
「セブルスはまだ小さいのに本当に偉いね。おかしなことだけれど、セ
ブルスに看病してもらっていたら、久しぶりに母の夢を見たよ。私が子
供の頃に亡くなったのだけれど、とても懐かしかった」
ピーターがゴブレットに注いだオレンジの果汁をゆっくりと味わうように
飲みながら、リーマスがそんなことを言いだした。自分のことをほとんど
話さないリーマスには珍しいことだった。セブルスはオレンジの果汁が
好きだったので、ピーターに自分の分をゴブレットに入れてもらって、舐
めるように少しずつ飲んでいるところだったが、飲むのを中断して首を傾
げた。
「似ている?」というセブルスの短い問いに、リーマスも首を傾げたが、
「見た目じゃないんだよ」と微笑んだ。リーマスがオレンジの果汁が
まだ残っているゴブレットを盆に置くと、セブルスもゴブレットをピー
ターに渡して、椅子を立ってリーマスの傍に寄り、布団の上に置か
れた優美な顔に似合わない武骨な手に自分の小さな手を重ねた。
「あぁ、やっぱりこの手だ」
リーマスはそっとセブルスの小さな白い手を取って呟いた。ピーターは
珍しく感傷的なリーマスの言葉を大事に受け止めたが、かける言葉が
見つからなかった。セブルスもリーマスに気持ちを合わせているように
黙っていたので、部屋は静まりかえっていたが、穏やかな空気に包ま
れていた。あまりに平和的な雰囲気に、リーマスがこの場に不在の人
物を思いだし、静寂を破ってピーターとセブルスに話しかけた。
「そういえば、シリウスたちはどうしたんだい?」
「みんなで狩に出かけてる。ドクターに食べさせたいからって。きじとか
うさぎとかとってくるって」
実は、シリウスが病室にいると本人も煩いし、女中たちが興奮して騒が
しくするので病人が疲れてしまうとセブルスがジェームズに訴えたので、
ジェームズがシリウスとレギュラスを連れて狩に出かけていたのだ。
ちょうど階下から急に慌しい気配がして、外からも馬の駆ける音や、犬の
鳴き声が聞こえてきた。ジェームズたちが館へ戻ってきたようだ。黙って
いるが、耳をそばだてているセブルスにリーマスが、
「ジェームズたちを出迎えに行ってあげなさい。きっと喜ぶよ。それから
シリウスに後でここに顔を見せにきてほしいと伝えてくれるかい?」
と頼んだ。セブルスはこくりと頷くと、小走りで部屋を出て行った。その
後すぐに、リーマスは床に落ちているものに目を留めた。リーマスの視線
の先を見たピーターが慌てて駆け寄り、セブルスを追いかけようとした。
「待って。それは私が預かっておこう。あの子はおいていったんだよ」

(2013.7.25)
 

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