鹿と小鳥 第38話

「ん…、何だ?」
 頬を這う生温かく濡れた感触に、ジェームズは目を覚ました。目を
擦っているうちに意識がはっきりしてきて、マルチーズたちに顔をベロ
ベロと舐められているとわかった。田舎に連れてきてからは、外で好き
に遊び回らせているので、筋肉がついて逞しくなり愛玩犬らしからぬ
風体になっているが、餌は自分でとれないので腹が空いているのだ
ろう。昨夜はシリウスたちと散々に飲んで騒いだ。記憶が曖昧だが、
先にセブルスを休ませていた寝室まで戻りはしたものの、床で寝てしま
ったらしい。使用人に介添えされて階段を上ったような気がするのだが、
寝台まで運んでくれなかったのだろうかとジェームズは二日酔いで痛む
頭で考えたが、すぐ傍で毛布にくるまって眠っているセブルスが目に入
って吃驚した。何故、セブルスまで床で寝ているのだろうか。一時、セブ
ルスはジェームズが部屋に戻るまで頑として起きて待っていて、夜会に
遅くまで出席していなければいけない時には困ったものだが、最近では
寝台の中で読書したり、うとうと眠っているようになっている。ジェームズ
の気配を感じたのか、セブルスが目を覚ました。セブルスはとても敏感
な性質なのだ。
「おはよう、セブルス」と声をかけると、セブルスが「ジェームズ」と小
さな声で答える。手を伸ばして、セブルスの豊かな黒髪を撫でると、
セブルスは横になったままジェームズのところに転がってきた。抱き
寄せると、セブルスもジェームズの身体に腕を絡ませてきて、素直に
甘えながら、昨夜、ジェームズが酔っぱらって部屋に戻ってきたことを
説明する。下男が親切で、暖炉に薪を足したり、ジェームズのブーツを
脱がせてくれたこと、ジェームズの鼾が蛙の鳴き声にそっくりだったこ
となどという話にジェームズがうんうんと相槌を打つたびに、話してい
るセブルスも頷くのが愛らしい。
 暫くしてから、暖炉の掃除をするために部屋に女中が入ってきて、絨
毯の上で寝そべっているジェームズとセブルスを見つけて、驚きの声
をあげた。ジェームズは驚いている女中に気楽に声をかけた。
「やぁ、おはよう。ご苦労だね。シリウスたちはどうしてる?」
「おはようございます。シリウス様たちはもうお目覚めでございます。
シリウス様がお風呂にお入りになりたいとのことで、お湯を沸かして
どんどんお運びしております。お医者様は二日酔いに効くお薬を作る
とおっしゃってました」と少し訛のある発音で女中が答えると、
「そうか、僕も後で風呂に入りたいからここにも湯を運んできてくれる
よう下に伝えてくれるかい。あぁ、先にセブルスが顔を洗うお湯を持っ
てきておくれ。リーマスは厨房にいるのかい?二日酔いの薬を僕にも
分けてほしいな。あれっ、犬達が部屋から出て行ってしまった」
「厨房にお犬のご飯はいつでも用意してあります」
「そう。国王陛下がこのセブルスに下賜された犬たちなので大事にし
てやってね。あの子たちもそろそろ洗った方がよさそうだ」
そんなことをジェームズと女中が話していると、セブルスがむくりと起き
あがった。ジェームズと女中の会話を聞いていて、リーマスが薬を作
るところを見物したいと思ったらしく扉に向かって歩きかけたが、
「待ちなさい、セブルス。まず顔を洗って、ガウンに着替えないといけ
ないよ」とジェームズに制されて、ぴたりと立ち止まりはしたもののが
っかりした顔になった。その時、コンコンと扉を叩く音がして、皆が扉の
ほうを皆が見ると、開けた扉をリーマスが後ろ手にノックして立ってい
る。片手には湯気のたったゴブレットを持っていた。
「おはよう、君にもこの薬が必要だと思ってね」
微笑むリーマスに、ジェームズも苦笑いしながら礼を言うと、セブルス
がリーマスの傍に駆け寄って、挨拶は抜きで薬を見たがった。
「熱いからね」と優しくセブルスに声をかけて、リーマスは床に座って
いるジェームズのところまで自分でゴブレットを運んだ。ジェームズに
ゴブレットが渡されるとセブルスは興味津々な様子で傍に座りこんで、
薬を飲むジェームズを見守り、鼻をひくひくさせて匂いを嗅いだ。兎のよ
うなセブルスの仕草を見て、ジェームズもリーマスも思わず笑顔になっ
たが、当人は真剣そのものの表情で二日酔いの薬に関心を寄せていた。


 一本だけ蝋燭を灯している暗い部屋で、ブラック兄弟は沈んだ表情で、
寝台で昏々と眠るリーマスを見つめていた。
「こんな事になるなんて」とシリウスが呟くと、レギュラスが、「早く熱が
下がればいいんですが」と溜息をついて答える。「ずっとついていてや
りたかったのに、あのチビが」と毒づきかけたシリウスをレギュラスが
制した。
「兄さんは興奮しすぎでしたよ。あの小さなレディの判断は正しかった。
しかも、私たちが代わるまで、あの方がずっとリーマスを看ていらした」
シリウスがリーマスの額にのせた濡らして絞った布をとると、レギュラス
が新しい布を桶の水に浸して絞り、シリウスに渡した。シリウスは熱のた
めに紅潮しているリーマスの顔を切なそうに見つめて、新しい布を額に
のせた。
「もう随分と無理を重ねていたんでしょうね。自分の体力を全て患者のた
めに使い果たしてたんですよ。我々がもっと気遣うべきでした」レギュラス
は表情と声に後悔の情を滲ませていた。
 リーマスの異変に最初に気づいたのはセブルスだった。朝食後に、二日
酔いの薬の材料と作り方を教えて欲しいとおもったセブルスがリーマスを
探して、階下にいたリーマスを見つけた。セブルスが近寄ると、リーマスは
椅子に俯いて座っていた。セブルスがそっと膝に置かれた手に触れると、
とても冷たかったので驚いた。リーマスはすぐに気づいて、顔をおこし、
セブルスに微笑みかけたが、セブルスはリーマスの目をじっと見つめて、
小さな手を額にあててみた。それから、下瞼を押さえて内側を見る。
「お医者ごっこかい?」と優しく話しかける声はいつもと違って掠れてい
た。セブルスは首を傾げた。そして、リーマスの両手を自分の小さな両手
で包んで引っ張った。
「立つの?」とセブルスの考えを察してリーマスは立ち上がったが、そのま
まふらりと倒れ込んでしまった。二人の近くにいたレギュラスが驚いて駆
け寄ると、セブルスがリーマスは病気だと思うと小さな声で告げた。レギ
ュラスが急いで廊下に出て、下男を呼ぶとすぐに二人の下男が走ってき
たので、リーマスを二階の客間に運ばせた。客間ではリーマスの薬を飲
んで楽になったシリウスとジェームズが談笑していたが、運ばれてきた
リーマスを見て二人とも仰天した。ジェームズがすぐに医者を呼ぶ手配
をしようとし、シリウスが自分の病気が伝染したのだと騒いだ。
事態が混乱する中、小さなセブルスがリーマスの枕元に進み出て、額に
手をあてた。ジェームズはリーマスが流行病だった場合のことを思うと、
一刻も早くセブルスを遠ざけねばと内心焦ったが、その時、リーマスが意
識を取り戻した。セブルスはリーマスの耳元で、リーマスの皮膚の様子
と、下瞼を押さえた時の内側の色、手は冷たいが額は熱いことなどをしっ
かりとした口調で囁いた。リーマスは苦しげに吐息をつきながらも、熱心
に聞いていた。話終わったセブルスが首を横に振ると、リーマスは頷い
た。
「ドクターは、先ほどの流行病ではありません」とセブルスが言ったので、
一同はひとまず安堵したが、シリウスはロンドンに連れて帰って治療を
と騒ぎだし、ジェームズは医者の手配と病室をどうするか悩んだ。リーマ
スが部屋の窓を塞ぐか、空いている小屋に移るからそこを封鎖するように
とジェームズに話したので、すぐにジェームズが下男に板を持ってこさせ
ようとした隙に、セブルスを部屋から出そうとした。しかし、セブルスは自
らさっと部屋を出ていくと、廊下で様子をうかがっていた使用人たちに、看
護に必要なものを指示して持ってくるように頼んで、また部屋に戻ってき
た。その時から、客間は病室になり、セブルスが責任者になったのだっ
た。動揺のあまり、リーマスの傍で考えついたことを次々に話すシリウス
に、セブルスは細い人差し指を自分の唇にあてて黙らせた。セブルスの
態度にはシリウスの反抗を許さない迫力があり、使用人たちは誰の指図
を仰ぐべきか理解したし、ジェームズはリーマスを隔離しようとしたことで
セブルスに薄情だと思われたのではないかと気を揉んだ。ジェームズが
手配した医者がポッター屋敷に到着した時には、病人は既に適切な看
護を受けて寝ていた。

(2013.6.30)
 

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