鹿と小鳥 第36話

 部屋の扉をノックする音がした後、「失礼いたしやす」と若い男の
訛った声がして扉が開かれた。セブルスは寝台の中でまるくなって
うつらうつらしていたが、ぱっと目を覚まし、身体を起こして扉の
方を見た。がっしりした体格の下男に抱えられたジェームズの姿を
認めて、セブルスは驚いて寝台からとび降り、素足のままぱたぱた
と傍に駆け寄った。
「旦那様は、ご親友の方々とずいぶんお酒を召し上がられて、酔
いつぶれておしめぇになりやした」
 下男は寝間着姿で自分を見上げて立っているセブルスを見下ろ
して困った表情を浮かべながら説明した。
久方ぶりに帰還した主人が連れてきたセブルスのことは、ジェーム
ズの溺愛ぶりと素晴らしい衣装で噂になっている。しかし、一日中
部屋に籠もっていて、まだ館のほとんどの者が声すら聞いたことが
なかった。身体が弱く、性格もひどく内気だということで、ジェームズ
自ら大切に世話しているという。自分のような粗野な者に声をかけら
れて気味悪く思うかもしれないと下男は心配して、なるべく穏やかに
目の前に立っている小柄なセブルスに事情を説明した。セブルスの
膚は雪のように白く、寝間着の袖から覗いている手はひどく華奢だ。
セブルスは下男の話に黙ったまま頷いた。そして、寝台にジェームズ
を運んでもらおうと指さしかけたが、その時、ジェームズがセブルスに
笑いかけてきた。元々血色の良いジェームズの顔は酒精の飲みすぎ
で真っ赤だ。
「セブルス、今日は緋色のガウンを着ようね、あの緑のリボンがつ
いているやつ。髪はどうしようか?レギュラスを驚かせないとね。彼
のフランス宮廷流の審美眼を唸らせなきゃ!」と呂律がまわってお
らず、完全に酔っぱらっていた。ジェームズは下男を横に押しやり、
千鳥足で衣装部屋に向かいかけたが、途中でどすんと尻餅をつい
た。
「喉が渇いた」とジェームズが癖毛をかきむしりながら訴えたの
で、セブルスはぱたぱたと走って、寝台横の小卓に用意してある
水差しの湯冷ましをゴブレットに注いでジェームズに持っていった。
「ありがとう、エリザベス。おまえもすっかり大きくなったね」
一息に湯冷ましを飲みほしたジェームズが礼を言ったのは亡き妹
の名だった。セブルスはこれほど酩酊したジェームズの姿を見るの
は初めてだったので目を瞠った。ジェームズが上機嫌で“セブルス”
の衣装や、“エリザベス”をピクニックに連れていく計画を話し続け
るので、セブルスと下男は困惑して顔を見合わせたが、しばらくする
とジェームズはごろりと横になって気持ちよさそうに寝始めてしまっ
た。自分ではまだ起きているつもりなのかしきりに手足を動かして
いる。セブルスは寝台までジェームズを運ぼうとする下男を手で合
図して制した。
「寝台だときっと下に落ちてしまうし、世話がしにくいのでここに寝か
せておきましょう」と人形のような見た目に反して、少女にしては低く
落ち着いた声に話しかけられて下男は驚いたが、言うとおりにするべ
くすぐに動いた。不思議なことに幼いセブルスには、下男が少年時代
に仕えた今は亡き女主人、ポッター伯爵夫人と同じ気品が備わってい
るように感じたのだ。そういえば、今夜の宴会でシリウスが発病した
際、セブルスが的確に手当を施した話が出ていた。酔っぱらったジェ
ームズが何度も同じ話を繰り返し、レギュラスとリーマスが何度も相
づちを打っていたので無礼講で周囲で騒いでいた者たちにもセブルス
の聡明さ、優しさはくまなく知れ渡ったのだった。
 幸いジェームズが寝そべっている敷物は毛皮で暖かいので、上か
ら布団をかけておけば風邪を引く心配はなさそうだった。セブルスは
ジェームズのブーツを脱がせてやろうと思い切り引っ張ったがびくとも
しなかった。奮闘して息を切らしたセブルスを見かねた下男が簡単に
脱がせてくれたので、セブルスは目で礼を伝えた。下男が寝台から毛
皮つきの毛布と羽毛布団をとってくると、セブルスは首を傾げて考えて
から、ジェームズに羽毛布団をかけて、頭の下にクッションを滑り込ま
せた。姿勢が楽になったのか、ジェームズは気持ちよさそうに頭を振っ
て唸った。セブルスがその傍に座って毛布を膝にかけると、下男は慌
てて止めようとした。
「誰か女中を呼んでめえりましょう。セブルス様は寝台でお休みくだ
せぇ。風邪をひいちまう。新しいお布団をお持ちしますんで」
「暖炉の傍だからだいじょうぶ。この毛布は毛皮がついているから
とてもあたたかい」とセブルスは答え、少しも気にしていない様子だ。
「ジェームズをつれてきてくれてありがとう。あとは私がついているか
ら、もう休んでください」
セブルスが下男を気遣う言葉をかけても、下男は心配そうだったが、
暖炉の火を加減して、何かあったらすぐに扉を開けて、家の者に声
をかけるようにと何度も繰り返してからやっと部屋から退いた。セブ
ルスはぶつぶつ寝言を呟いているジェームズの寝顔をしばらく見つ
めてから、毛布にくるまった。いつもジェームズの脇の下が就寝時の
セブルスの定位置なのだが、今夜は少し離れておいた方がいいよう
だ。といっても、寝台と床では離れすぎだとセブルスは考えた。ジェ
ームズと一緒に暮らすようになる前は、いつも一人で床に寝ていた。
外に出されて家に入れてもらえないこともよくあった。いつでも何処
か痛かったし、辛いことしかなかった。それが今では、床で寝るとい
っても毛皮の上だし、毛布もあり、ジェームズと一緒だ。布団を蹴飛
ばし、鼾をかきながら寝ているジェームズを見つめてセブルスはくす
りと微笑んだ。布団を掛けなおし、そっとジェームスの左胸に小さな
手をあててみる。ジェームズの胸の鼓動が手のひらからセブルスの
胸に伝わってきた。セブルスはもういちど毛布にくるまりなおすとジェ
ームズに触れていた手を自分の胸に当てて目を閉じた。ぱっと目を
開くと、黒い癖毛が目に入ってくる。セブルスは眠くなるまで目を閉じ
ては開けて、ジェームズの姿を確認しながら、ジェームズの蛙の鳴き
声のような鼾に耳を澄ませて聞き入っていた。


 蝋燭の明かりの下で見ると、レギュラスは普段より兄に似て見え
た。
「罪など誰にもありませんよ。あなたは何処にいても困っている人を
助ける人だ。兄さんは無分別な人ですけどね」
 リーマスは何と答えればいいのかわからなかった。レギュラ
スは沈黙を苦にしていないようだった。
「ダンブルドアがピーターを送り込んできた理由がわかりますか?」
とレギュラスは静かな声でリーマスに尋ねた。
「うん、わかっているよ」とリーマスは落ち着いた声で答えた。
「あんな子どもを使うなんてダンブルドアも人が悪いですね」
とレギュラスが苦笑したので、リーマスも微笑んだ。それがダンブル
ドアのやり方だ。一見、まわりくどい方法の方が確実にすべてを掌
握できるのだ。
「あの子が、密告したらどうするつもりですか。それとももうあの子を
味方にしているのかな?シリウスを看護していた時、ピーターは献身
的にやってくれていた。あの子はあなたたちのことを敬愛している」と
レギュラスは囁いた。
「別にどうもしないよ。僕が全てを引き受ける。修道院に戻るよ」
レギュラスはシリウスのたった一人の弟で、味方だ。嘘はつけない。
リーマスはシリウスと似ているが、より色が濃いので落ち着いた印象
を与えるレギュラスの銀灰色の眸を見つめた。
「なるほど。あなたはずるいんだな」
 レギュラスの声に咎める気色は露ほどもなかったが、リーマスは青
ざめた。レギュラスは無礼を謝罪するかのように微笑むと静かに部屋を
出ていった。

(2013.5.29)

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