鹿と小鳥 第3話

 ジェームズ・ポッター伯が虐待されていた子ども、セブルスをロンドンの
屋敷に連れ帰ってから三ヶ月が過ぎた。
寒空の下、頭から水浸しにされて虐められていたところに居合わせて、
そのまま引き取ってきたのだが、ロンドンの屋敷に到着した時には既に
子どもは高熱を出していた。子どもの着物を脱がせて体と髪を拭いて
清潔にした年配の侍女はあまりに悲惨な様子に涙が止まらず、ジェーム
ズにすぐに報告できなくなってしまったほどだった。
すぐに暖炉の火を熾して部屋を暖め、毛布や毛皮で子どもを包んでから
緊急の使いを出して親友の医師リーマス・ルーピンに往診を頼んだ。
ポッター家にもお抱えの医師はいるのだが、ジェームズの父の代に雇った
のでかなり高齢であまり役に立ちそうになかったからだ。
リーマスは子どもの時一緒に学んだ仲で、医師としての使命感の強さ、
その有能さをジェームズ自身がよく知っている。子どもの容態は悪いと
わかっていたが、できるだけの手を尽くしてやりたかった。
すぐにリーマスは来てくれたが、病人を一目見るなり険しい顔つきになっ
た。子どもは肺炎をおこしていたのだ。力のない小さな手が苦しそうに
胸を掻き毟ろうとする。直ちにリーマスの指図で湿布が用意された。
リーマスの話ではできる手当は全てしてみるが、かなり衰弱しているので
後は神の加護を待つしかないということだった。
痩せこけた身体の痣や傷について質問されたので、引き取ることになった
経緯をジェームズは簡単に説明した。リーマスは何ともいえない表情で
話を聞いていたが、黙って子どもの額の汗を拭いて、枕をなおし呼吸が
しやすいように調節してやった。それからはセブルスの熱が下がるまで、
ジェームズと一緒にセブルスに付き添ってくれることになった。

「エリザベスのことを思い出して辛いのではないのかい?」

 セブルスの額の上に載せた濡らして絞った布を取り替えていると、不意
にリーマスに気遣いの言葉をかけられた。ジェームズは数年前に流行病
で年の離れた妹エリザベスと両親を立て続けに亡くしている。エリザベス
とジェームズは一回り以上年が離れていたがとても仲がよく、シリウスや
リーマスにもポッターの領地にある屋敷で夏を一緒に過ごしたりして、可
愛がられていた。流行病で夭折した時には、シリウスとリーマスも自分の
妹を失ったように悲しんでくれたものだ。

「いや、エリザベスの時は僕は家を出ていて父と母に任せきりだったか
ら。僕はエリザベスが元気だった姿しか覚えていない。そういえば、この
子は同じ年頃だね」

 エリザベスは両親に溺愛され、大切に育てられていた。周囲の誰もが
愛さずにはいられないような愛らしい子だったこともあるが、セブルスの
受けてきたであろう惨い仕打ちがこの世に存在することを知ることすらなく
天に召された。幼いエリザベスの死はジェームズを打ちのめしたが、エリ
ザベスが世にも幸福な子どもだった事実はジェームズにとって今では慰め
になっていた。しかし、目の前で苦しんでいる瀕死の子どもを神のもとに
送るのも、土の下に埋めるのも理不尽なことに思える。
何か幻覚でも見えるのか、荒い呼吸をしながら空中に伸ばされた小さな
手をしっかりと握りしめ、なんとしても元気になるように祈った。

 病が峠を越えてからも、命に別状はないと確信がもてるまでかなりの
日数が必要だった。ジェームズは病室に寝椅子を運び入れつきっきりで
看病していた。熱が下がり意識がはっきりするとセブルスは、ジェームズ
のことをじっと見つめたり、目で追うようになった。ジェームズが自分をここ
に連れてきた人間だとわかっているようだった。
 最初にセブルスの身体を清めた侍女が、セブルスの寝間着を何枚も
縫って持ってきた。子どもを亡くしたことがある中年の女で、これが経帷
子になりませんようになどと悲観的なことを言ってはすぐに涙ぐむのが難
点だったが、容態が安定してくると襟や裾にレースを縫いつけたり、刺繍
を施したりする気遣いを見せ、本当に親身になっているのが感じられて、
ジェームズも彼女の労をねぎらい、寝間着の上に羽織るものや、下着など
他に必要になったものを任せて作らせた。
セブルスは髪や顔、身体をいつも清潔に手入れされ、ジェームズが心を
砕いて用意させた滋養のあるスープを飲ませているので日毎に顔色
もよくなり、黒い髪にも艶が出て次第に子どもらしくなってきたので、ジェ
ームズもセブルスの身の周りを可愛らしく整えようという余裕が生まれて
いた。

 ある日、セブルスの熱が下がった時点で、今後の注意すべきことをを
指示してから一旦ブラック邸に戻ったリーマスが、今度はシリウスと一緒
にポッター邸に診察にやってきた。
 ちょうど厨房に指図して作らせた喉ごしのよい野菜のポタージュを、
ジェームズ自ら匙でセブルスの口に運んでいるところだったので、シリウ
スはひどく驚いた表情になった。大貴族の嫡子であるシリウスにとって、
身の回りの世話というものは使用人がするものなのだ。同じ貴族階級でも
わずか三代前に受爵したポッター家の内は、しきたりよりも実質的なこと
が優先され、両親が子どもを手元に置いて自ら育てる家風だったが、シリ
ウスは生後直後から両親とは別のブラック家の城の一つで、多くの使用人
に傅かれて育ち、両親とは年に一度か二度面会するだけだったという。
親友づきあいするようになり、ポッター邸に来たシリウスはポッター家の
家庭的な雰囲気に驚いていたが、とても気に入った様子だった。
 リーマスはセブルスを診察して、ほっとした様子で後は滋養のあるもの
を摂って、少しずつ元気になっていくのを気長に待つしかないと話した。
 ジェームズはずっと気になっていた、セブルスが言葉を話さないことを
リーマスに尋ねてみた。リーマスがセブルスに口を開くようにいうと、「あ」
の形に口を開いた。リーマスが喉を診たかぎりでは異常は見つからなか
ったということで、リーマスの見解は、専門の医師を紹介してもよいが、
熱に魘されていた時に何度か悲鳴をあげていたので声は出る。言われた
とおりに口を開けたことから、耳は聞こえているし、言葉も理解しているよ
うだ。推測だが、虐待されていたためにセブルスは自分を主張することが
怖くてできなくなっている、心から安心できたら自然と言葉を話すように
なるのではないかということだった。その話をきいて、ジェームズも気長
に待つしかないのかもしれないと思ったのだった。
シリウスから、いつ宮廷に戻るのかと心配された。そして、子どもは
空気のきれいな田舎の家で静養させるか、そういう田舎のしかるべき
家に預けるかしたらどうかと言われた。それはジェームズとしても考えな
いでもなかったことだが、今すぐ誰かにセブルスを手放すことはしたくな
かったのだ。
宮廷に出仕しても、セブルスはこのままここに置いて、様子を見にちょく
ちょく戻ってくることにしようと思っているが、セブルスの世話に明け暮れ
ているので日延べしているのだった。 
セブルスの正確な年齢は聞き忘れてしまったが、あのセブルスの継母
の子供たちの年かさの方より上だとすると十歳くらいにはなっているは
ずだが、見た目はもっと幼い。家の者は信用がおけるが、一人にして
おくのは可哀想に思えて仕方がなかった。

 シリウスとリーマスの訪問から少しして、セブルスは目にみえて元気に
なり、ジェームズも夜だけは自分の寝室で眠るようになったのだが、夜中
にセブルスがベッドを抜け出して徘徊するようになってしまった。夜更けに
様子を見に来た侍女がセブルスの寝台が空になっているのを発見し、
家中の者で捜索するのだが、大抵廊下の隅や階段の下で発見され、ジェ
ームズのところに連れてこられた。暴れたりはしないし昼間は普通に過ご
しているので、これも医者に診せた方がいい症状なのかジェームズも気
になっていて、いっそう余所へやる気はなくなっていた。
 ある夜更けにセブルスが部屋からいなくなったと使用人たちが探し
回る声で目が覚めたジェームズは、自分も起きだして捜索に加わった。
手燭をかざしながら歩いていると、廊下の隅の暗がりに白い塊がうずくま
っていた。

「セブルス」

 声をかけると、白い塊はふらりと立ち上がった。ジェームズの方に白い
寝間着の裾からのぞく小さな裸足をぺたぺたさせて歩いてくる。小さくて
細い指がしゃがんでいるジェームズのシャツを掴んだ。その瞬間、ジェー
ムズはセブルスが自分を探していたのだと悟った。その時、自分でも説
明できないくらい激しい感情に胸を鷲掴みにされたような気がした。それ
は生まれてから一度も経験したことがない強い気持ちの昂ぶりだった。
小さなセブルスを腕に抱き上げるとおとなしくしている。セブルスはジェー
ムズの胸に自分の耳を寄せて凭れかかった。
セブルスが見つかったことを使用人たちに告げてから、自分の寝室に
引き上げた。

「今日から、ここが君の寝室だよ」

 毛皮のついた毛布を顎の下までかけてやるとセブルスはジェームズの
顔をいつものようにじっと見つめていたが、疲れていたのかやがて眠って
しまった。その隣に自分も横になった。
 宮廷に一緒に連れていこう。セブルスは宮廷の自分に与えられている居
室にいればいい。居心地よく過ごせるように、暖炉を調理しやすいものに
作り替えて、調度品も全部替えよう。
独身の男が幼児とはいえ少女と同室してもおかしくない理由を考えなけ
ればいけない。国王や王妃を味方につける手だてを講じておく必要があ
る。それからセブルスの衣装の支度がある。あのセブルスが身につけて
いるものを縫っている侍女を連れていくことにしようか。何かと辛気くさい
ことをいうが、セブルスのことを大切に思っているのは確かだから。ジェ
ームズは傍らで眠る子の黒い髪を撫でながら、これからのことに思いを
馳せ、滞りなく物事を進められる算段をしはじめた。


(2011.6.24)

 
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