鹿と小鳥 第27話

  宮廷舞踏会では国王夫妻までダンスに興じられていた。ジェーム
ズは以前にも何度か踊ったことのある伯爵令嬢を次の相手ににこや
かに手渡すと、葡萄酒で渇いた喉を潤すこともせずにそっと大広間か
ら抜け出た。足早に回廊を歩きだそうとしたところで呼び止められた。

「ジェームズ、もう帰るのか?まだ宵の口だぞ」

 親友シリウスがジェームズが出ていくところを見かけて追いかけて
きたらしい。

「あぁ、今夜はこれで失礼するよ。セブルスの髪を洗う日なんだよ。
まったく、こう暑い日が続くと毎日洗ってもいいくらいだ」

 子どもを引き取って手元で養育しているとはいえ、そういうことは使
用人の仕事ではないのか。シリウスは形の良い眉を顰めた。ジェー
ムズは相変わらずあの子どもに夢中だ。先日もリーマスのところにセ
ブルスが果汁と蜂蜜入りのヨーグルトしか食べたがらないのだが病
気ではないだろうかと急ぎの使者をたてて問い合わせてきた。リー
マスは軽い暑気あたりだろうから心配はいらない、ドライフルーツや
胡桃、脂気の少ないハム、なるべく白くないパンも食べさせるように、
スモールエールか湯冷ましはたっぷりと飲ませなければいけない
が、生水は決して飲ませないようになどと細々と注意書きした返事
を折り返しピーターに届けさせた。ピーターはジェームズの居所で
セブルスに会っていつもと変わらない様子だったと報告した。ジェー
ムズは過保護で気にしすぎなのだ。ピーターの話によるとセブルス
は暑さ対策なのかいつもは下ろしている髪を結い上げて、薄物の
ガウンを纏ってソファに腰掛け、床に置かれた水を張った木の盥に
両足をつけて涼んでいたらしい。貴婦人らしからぬ振る舞いだが、
ジェームズがセブルスの機嫌をとるために思いついたのかもしれ
ない。

「そうだ、リーマスにこの間はありがとうと伝えておいてくれないか
な。セブルスはパンにジェリーかバターを塗ると食べるようになった
んで一安心しているんだ。こう暑い日が続くとセブルスを連れて田
舎に避暑に行こうかと考えているので、出かけるとなるとまたリー
マスに相談すると思うから」

「田舎って、あの俺たちが昔遊びに行った屋敷か?」

「そう、両親とエリザベスが亡くなってからは人に管理させていたん
だけどね。今年は久しぶりに行こうかと思ってる」

 シリウスは楽しかった夏の思い出に胸が切なくなった。自分達の
後ろをついて回っていた愛らしいジェームズの妹、いつも和やかだっ
たポッター夫妻、心安らぐ田園風景、従者も連れずに皆で小川で遊
んだものだった。あの頃からリーマスは控えめだったが、まだ医師
の道に進んでおらず、仲の良い友人同士だった。

「シリウスはそろそろ大広間に戻った方がいいよ。令嬢方が列を
なしてお待ちかねだ」

 ジェームズは明るい声で笑ったが、セブルスが来る前はいつも二
人で社交界の注目を浴びていたのだ。恋愛ごともジェームズが隣に
いるから面白かったのだとシリウスは痛感した。二人で目配せし合
って品定めしたり、駆け引きを報告し合うことがシリウスの宮廷での
恋愛遊戯の醍醐味だった。

「おまえも子どもの世話ばかりしていたら老け込むぞ」

 シリウスの軽口にジェームズは楽しそうに微笑みながら、そうだね
と返事した。さっさと行けと手で追い払う真似をすると、ジェームズは
手を振り返しながら去っていった。その後ろ姿を見つめながら、シリ
ウスは大広間に戻る気が失せていた。リーマスの顔が見たかった。
あの整ったきれいな顔や優しい声に触れると、不安や苛立ちが消え
失せるのだ。しかし、リーマスはピーターを連れてシリウスの屋敷に
戻っていた。近隣の村を往診してまわっているのだろう。近頃、質
の悪い病が流行りかけているのだという。黒死病ほどではないが、
死に至ることもあるのだとリーマスは憂い顔で話していた。明日に
なったら船を出させて屋敷に戻ることにしよう。今夜は誰でもいい
から無聊をかこつ相手を見つけて我慢するしかない。夜が明ける
まで一人でいたくない。大広間に戻ると、早速幾つもの視線がシリ
ウスに向けられた。王妃の傍近くに一際華やかな笑顔で談笑し
ている母の姿が見える。そこからシリウスは視線を逸らすと自分で
も魅力的だとよく知っている微笑を浮かべて今夜の相手を探し始
めた。
 ジェームズがポッター家の居所にたどり着くと、部屋の前に召使い
が待っていて礼をして出迎えた。召使いが扉を開けたので中に入る
と、セブルスと乳母は就寝前の祈りを捧げようとしているところだっ
た。蝋燭の灯りの下に俯いて膝まづくセブルスの横顔を見ると自然
に頬が緩む。乳母は慌てて立ち上がってジェームズにお辞儀をした
が、ジェームズは軽く制して、一緒に祈ろうと言ってセブルスの傍
に自分も膝をついた。セブルスはジェームズの方をちらりと見たが
あいかわらずおかえりと声をかけるでもない。
他の召使いたちもジェームズたちを遠巻きにして各々座ったので
一同で祈りを捧げた。ジェームズの祈りにはセブルスの乳母は信仰
心が篤いのでジェームズは乳母の顔をたてる意味も多少は込めら
れている。それに宮廷において信仰心が篤いという評判を得ることは
何かと便利だった。
 乳母の長い祈祷が終わると、召使いたちは解散した。ジェームズ
が係りの者に入浴のための湯を言いつけると、セブルスは眉を顰め
た。髪を洗ったり、乾かしたりするのが面倒で仕方ないらしい。しか
し乳母がガウンを脱がせて、結い上げた髪を解くと観念したのかジェ
ームズにくるりと背中を向けた。ジェームズがセブルスの髪を梳る
ことになっているのだ。ジェームズが丁寧にセブルスの黒髪を解か
すと血の巡りが良くなって気持ちがよいのか時々小さな頭を揺らす
のが可愛らしい。ジェームズはセブルスの艶やかな黒髪が自慢で
髪を肩に垂らしておいたのだが、近頃の暑さで首が蒸れて汗疹が
出てセブルスが痒がったので、慌てて結い上げさせると豊かな黒髪
と華奢な首のラインの両方が際だちジェームズを喜ばせた。
 部屋に衝立や木製の浴槽が置かれ、程良い加減の湯が入れられ
た盥が次々と運び込まれた。ジェームズが髪を洗うのが嫌いな
セブルスの髪に湯をかけるといつものようにセブルスはぐったりと
なった。水嫌いは時間をかけて治して入浴も好きになっていのだが、
生来自分を綺麗にすることに興味がないのだ。
ジェームズがセブルスの容姿を褒めるといつでも怪訝な顔をする。
ある時、セブルスが綺麗というのはシリウスのような人のことでは
ないかと鋭く指摘してきたのでジェームズは面白くて笑ってしまっ
た。たしかにシリウスは美しい。しかし、女性ではなくて男性の名
を挙げるとはセブルスらしいというか、シリウスらしい話でもあった。
僕からすると君が一番なんだよと言うと不可解そうな表情をして
いた。
 髪洗いの苦行を終えたセブルスを乳母に預けて、ジェームズは
自分も入浴した。今日の舞踏会でついた匂いを落とさないと寝台
でセブルスに厭な顔をされてしまう。石鹸とセブルスが最近凝っ
ているハーブを詰めたモスリンの大きな袋で身体中を擦ってから
湯で流す。乾いた布で水滴を拭いて寝間着を着て寝室に向か
った。寝室の天蓋付きの寝台では既にセブルスが横になって
いた。暑いのでカーテンは引いていないので、髪を下ろしたセブ
ルスの顔がよく見える。セブルスの隣にジェームズも横になる
と、セブルスが寝返りを打ってジェームズの脇の下を陣取った。
育った環境が劣悪だったせいか、セブルスの成長は遅れがち
だった。知的好奇心は旺盛なので教養は瞬く間に身につけつ
つあるが、身体はなかなか成長しない。医師のリーマスに相談
したら、人より遅れているが問題はない範囲だというので慎重に
見守っていくしかないだろう。セブルスの小さな手がジェームズ
の癖の強い髪をいじって遊んでいる。そっと顔を寄せて匂いを
嗅いでいる幼い様子が愛しい。隣の子供用の寝台からワンと鳴
く声がしてセブルスとジェームズは顔を見合わせた。マルチーズ
が寝ぼけたに違いない。ジェームズがそう言うとセブルスが
声は出さなかったが笑顔になったので、ジェームズも笑った。
やがてセブルスが軽い寝息をたて始めたので、ジェームズも
目を閉じた。何かと予定はあるが明日考えればいい。ジェーム
ズは窮屈な宮廷から暫く逃れる計画をたてていたが、宮廷の
この一室ほど心安らぐ場所は存在しないのも事実だった。

(2012.8.29)

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