鹿と小鳥 第26話

 ブラック侯爵夫人に直接話しかけられて、ピーターはおずおずと顔を
上げた。そっと正面を見ると、上等な絹のガウンに豊かな黒髪をフラン
ス風に結い上げた貴婦人が佇んでいた。シリウスと瓜二つの完璧な
美貌だが、より優しげで親切な温かみが口元の微笑みに漂ってい
る。シリウスの姉でも通るほどに若々しいが、この部屋にいる若い令
嬢達が束になっても適わないほどの気品がある。
 ブラック侯爵婦人は既にピーターの事を知っているらしく、ピーター
が働いていた修道院のことやダンブルドアの話や、堅苦しい宮廷で
の暮らしには慣れたかと気遣われた。緊張しながらもピーターができ
るだけ明るい声で礼儀正しく答えると、励ましの言葉をかけられた。
穏やかな表情でピーターを見守っていたリーマスにブラック侯爵婦人
は可愛い助手ができてよかったですわねと快活に話しかけた。シリ
ウスにとられないようになさいと悪戯っぽい表情で忠告する。

「侯爵家の用事が最優先ですから」

と、控えめに答えるリーマスにブラック侯爵婦人は、

「あら、シリウスの用事なんて、どうせあの子の気まぐればかりでしょ
う?」

 シリウスの執事からブラック侯爵婦人のもとに家政の細かいことに
口を出されて困っているとの苦情の書状がしょっちゅう届いているらし
い。

「もっと侯爵家の嫡子としての自覚をもってもらわなければいけない
わ。そろそろ結婚して落ち着いてもいい頃なのだけれど」

ブラック侯爵婦人のまわりで色とりどりのガウンで着飾った貴族の若
い娘達がお互いに顔を見合わせた。シリウスは宮廷一の美男子であ
り、王家に次ぐ名門の嫡子なのでその花嫁の座を狙っている者は少
なくない。黙って頬を薔薇色に染めて俯いている娘もいる。ブラック
侯爵夫人はそんな若い娘達の反応を百も承知した上で気にとめない
素振りでシリウスの困った行状を嘆いて見せながらも、シリウスが
国王のテニスの相手に選ばれたと嬉しそうに語った。ある意味裏表
のないシリウスの性格を、わりと猜疑心が深いところのある国王は
気に入っているのだ。リーマスはブラック侯爵婦人の脈を診たり、
ちょっとした健康の相談を受けた後、その場に居合わせた娘達の
相談にも丁寧に応じた。大抵はもっと色が白くなりたいとか、髪の
質についてなどの他愛ない質問だったが、リーマスは薬効のある
食物を勧めたり、心配することはないほど美しいなどと答えていた
が、夜も眠れない苦しい恋を叶える薬が欲しいと真剣な表情で訴え
られた時には困っていた。ブラック侯爵婦人も興味津々でその薬を
作れないのかと訊いてきたが、一時的に感情を興奮させる薬はある
が、効果は持続しないし必ず副作用に苦しむことになるとリーマス
は厳かに答えてから、夜が眠れない時には、温めたミルクを飲むの
が一番いいと笑顔で諭した。

「ところで、シリウスのお友達のポッター伯のところの小さな方は
近頃はどのようにお過ごしなの?」

 セブルスがポッター家の居所から出るのは礼拝所に赴く時に限ら
れ、ジェームズか乳母に抱えられて移動している。セブルスの声を
聞いた者は宮中でも国王夫妻に声をかけられたところに居合わせ
たほんの一握りの者に限られていた。ブラック侯爵婦人は王妃に
従いて礼拝に赴いた時に、何度かセブルスを見たことがあるのだ
が、王妃の御前で直接セブルスに話しかけるのは遠慮したという
ことだった。

「あれほどか弱い方をシリウスが連れ歩くなんて。あの子も配慮し
なければいけないわ」

 ジェームズに用事があって、シリウスがセブルスを修道院から
宮廷まで連れて戻った時の事を指しているのだろう。侯爵夫人は
軽く溜息をついて嘆いた。回廊をセブルスを胸に抱いて歩くシリウ
スの姿は衆目の的になってしまった。ピーターが供として従ってい
たのだが、誰の目にも止まらなかったらしい。ブラック侯爵婦人の
サロンに集う令嬢達にとっても穏やかではいられない話題だった
が、リーマスが差し障りのない程度に事情を説明すると安堵した
空気になった。

「まぁ、ピーターはポッター伯のところにもよく行くの。小さなレディ
とはお話したことはあるの」

 ピーターはシリウスとセブルスの小旅行に同行した事から、セブ
ルスに顔を覚えられた。ピーターは自分が気に入られているのか
よくわからなかったが、セブルスがピーターを気に入っていると人伝
だが聞かされて驚きつつも嬉しく思った。それでポッター家の居所に
用事がある時にはセブルスに必ず挨拶して、セブルスの用事を手伝
うことにしている。ブラック侯爵夫人はピーターからセブルスが飾り文
字の練習や読書、ポプリ作りなぞをして部屋で過ごしていることを
興味深そうにふんふんと肯いて聞いていたが、

「ドクター、王妃様が貧者に施すシャツを縫う会を催されるのだけれ
ど、お誘いしてはいけないかしら?いつもお一人だと淋しいでしょう」

と、提案してきた。ピーターが知る限り、セブルスはまるで淋しそう
ではない。ポッター伯が留守の時には内心は不安なのかもしれな
いが我慢強く黙って待っている。

「ポッター伯にお話になってみたらよろしいでしょう。ただずっと空気
の綺麗な田舎で静養なさっていた方ですし、宮廷では何かとご遠慮
なさっているのかもしれませんね」

 リーマスが落ち着いた口調で答えると、ブラック侯爵夫人は微か
に表情を曇らせて、

「それもそうですわね。お身体があまりお強くない方ですものね。
ポッター伯にお誘いだけしてみますわ」

 それから、セブルスが薬草に興味があるなら、珍しい花や草を領地
に手紙を送って探させてポッター家に届けてみようと話した。セブル
スの気晴らしになるかもしれないという親切な思いつきだ。シリウスも
同じ事を考えていた。仲が良くないと思われている母子だが、そうい
うところはひどくよく似ていた。ピーターは、シリウスから母親に対す
る憎悪に似た嫌悪を散々聞かされ、自分が母思いであることもあって
シリウスに同情していた。しかし、ブラック侯爵夫人に実際に拝謁
して見ると、確かに母親らしい女性ではなかったが悪人にも思え
なかった。恐れ多い事ながら、シリウスは未だ親に反抗する年頃
を過ぎていないのかもしれないとピーターは心ひそかに思ったのだ
った。

(2012.7.31)

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