鹿と小鳥 第25話

 
 宮殿の長い回廊をほとんど小走りになって一目散に歩いている小柄な
姿はどことなく鼠に似ていた。ピーターは新しい主人のシリウスからもう
少し落ち着けとしょっちゅう注意されているが、もともと身体が小柄なぶ
ん他人より急いで仕事をしなければ追いつかないという強迫観念のよう
な思いがありなかなか直らない。ダンブルドア司教の推薦でブラック侯
爵家の嫡男シリウスとその友人である医師のリーマスのもとで働くよう
になって数ヶ月が経つが、ようやく主人たちや宮廷で仕えるコツがのみ
こめてきたところだ。
 ピーターの仕事はリーマスを助けたり、シリウスの雑用をする事だ
が、最初のうちは宮廷のやんごとない方々に失礼がないように神経を
擦り減らしたものだった。シリウスの居所周辺の部屋の配置や、主だっ
た貴族の名前と顔を覚えたり、同じ使用人同士の付き合いもあった。
宮殿の規模自体は実はもといた修道院とそれほど変わらなかったが、
中にいる人々はまるで違う。ピーターは一人暮らしをしている母親に
宮廷での仕事や生活について心配させない程度に詳しく知らせて、母
からも息子の出世を喜ぶ返事をもらっていたが手紙に書けないようなこ
とももちろんあり、気の張る毎日を送っていた。それでも、自分は素晴ら
しい幸運に恵まれているとピーターは心から思っている。大貴族である
ブラック侯爵家のシリウスとその友人リーマスに仕えている自分が誇ら
しい。シリウスは今まで見た誰よりも美しい若者で、宮廷一華やかな
存在だ。性格的には気紛れなところがあり、ピーターもしょっちゅう叱ら
れているが、思いやり深い面もある。ピーターの身の上話を聞き出す
と、一人暮らしの母を気遣い定期的に里帰りできるように取りはからっ
てくれたのだ。ピーターも母もその事を深く感謝している上に、帰る時
にはシリウスの屋敷にいったん寄って食料品などの土産をもたせて
くれると約束してくれたので楽しみだった。
 それに、シリウスのリーマスに対しての心遣いは際限がないほど篤
い。パトロンとしてリーマスの医師としての仕事を援助しながらも、常に
働き過ぎだと怒っては世話を焼くことに心を砕いている。ピーターは
今まで見てきた修道士の中でもリーマスほど人のために尽くす人を
見たことがない。二人はダンブルドアのところで共に学んだ仲だと聞い
ているが、あそこでは貴族の子弟だけが教育を受けるのでリーマスが
医者になっていることが不思議だった。ピーターは人に聞くわけにもい
かないので一人でつらつらと考えてみたが、リーマスはどこか世俗と
距離をもとうとしているように見え、もしかすると修道士になろうと思っ
ていたのかもしれなかった。リーマスは自分のことは殆ど話さないの
でわからないのだが、貴族出身といっても嫡出ではないのかもしれな
い。ピーターが早くに父を亡くし、母が父の実家からの僅かな年金で
ピーターを育ててくれたという話をした時、いつでもとても優しい人では
あるけれど、肩を寄せ合って暮らしていたピーターと母に深く共感して
くれたように感じたのだ。

「お母さんが君を手放されなかったことに感謝しなければいけないよ。
やむを得ず養子に出される子はとても多いのだよ」

 その時、ブルーの眸は澄んで、柔らかく穏やかな口調だったにも関わ
らずいつもより声に熱がこもって聞こえた。


 重厚な樫の扉の前で深呼吸してからノックすると、すぐに扉が開かれ
た。

「シリウス・ブラック様からのお手紙を持って参りました」

よく通る声で用件を伝えると、

「やぁ、ピーターじゃないか。お入り」

と、明るい声に入室を許された。部屋の主であるジェームズ・ポッター
伯爵が執務用の机の前で悪戯っぽく微笑んでいる。ピーターは恭しく
お辞儀をしてから、ジェームズに手紙を手渡した。この部屋にはもう
何度も使いにきており勝手はわかっている。ジェームズは、リーマスと
共にシリウスの親友でよく一緒にいるばかりか、頻繁に手紙や物を
やりとりしているのだ。ジェームズが手紙を呼んでいる間に、ピーター
がくるっと部屋に視線を巡らすと、暖炉の傍で小さな手がひらひらと
振られているのが目に入った。

「ご機嫌麗しういらっしゃいますか、セブルス様」

 敷物の上に重ねられたクッションの上に肘をついて横座りした小さな
セブルスはその黒い眸でじっとピーターを見上げた。今日は部屋用の
ガウン姿だったが、眸と同じく黒い豊かな髪にはフランス製のリボンが
蝶が止まっているようにふわりと結ばれ、首もとには幾重ものパール
にPの金字のネックレスが輝いていた。ポッター伯ジェームズのセブ
ルスへの愛情は並々ならぬものがあり、衣装も自ら選ばれると漏れ
聞いている。セブルスはポッター家の縁者だということだったが、実の
娘か妹のように鍾愛されているのだ。ピーターはシリウスとセブルスの
供をして修道院から宮廷に戻った縁でセブルスに顔を覚えられ、セブ
ルスが最近凝っているポプリ作りを手伝った時に仕事が丁寧だと気に
入られたらしい。セブルスは寡黙なので直接聞いたわけではないが、
ジェームズからシリウスを経由してピーターに伝えられたのだ。ピータ
ーはいつも無言のセブルスによく思われていないかもしれないと内心
気にしていたのでほっと安堵した。それからは用事でポッター家を訪問
する時にはセブルスにも挨拶することにしている。

「ピーター、返事はうちの者に行かせるから、しばらくセブルスの相手を
しておくれ。今、何か飲み物を持ってこさせよう。最近、暑いね」

 ジェームズが呼び鈴を鳴らして召使いに用を言いつけると、手紙の返
事を書きながら気さくにピーターに話しかけた。

「きみ、シリウスの母上、ブラック侯爵夫人には会ったことがある?」

 ピーターがセブルスが乾燥ハーブを少しずつ混ぜ合わせて香りを試す
のを手伝いをしながら、「あります」と答えると、

「吃驚しなかったかい?」

 いかにも愉快そうな口調だった。ピーターはどうしようかと一瞬迷った
が一緒に笑った。

「シリウスと母上はそっくりだろう?シリウスの美貌はあの母上譲り
なんだよ。まぁ、従兄妹同士で結婚しているから父上とも似てるけど
ね。それにしても、あれほど似ているのにあれほど対立するなんて
不思議な気がするよ。あれが本物の近親憎悪というものなのかもし
れないね」

 ジェームズは際どい話題を笑顔で済ませてしまったが、ピーターに
とってそれはかなり衝撃的な問題だった。シリウスは類稀な美貌に
似合わず率直な性格でピーターの前でも人の好き嫌いなどあけっ
ぴろげに話して聞かせたが、シリウスの最大の憎悪の対象は何と
実の母親だった。母一人、子一人で倹しいながらも仲良く暮らして
きたピーターにとって、母親を敵のように罵るというのがまずショッ
クだった。そして、シリウスの話によるとだが、子どもが生まれてか
ら礼儀作法を完璧に覚えるまでは邪魔という理由で遠方の城で他人
に育てさせて滅多に会わないで平気な母親がこの世に存在するもの
だろうか。ピーターは目の前にいる主人への忠誠心から自然と見知ら
ぬブラック侯爵夫人を非難する気持ちを覚えていた。
 ある時、リーマスの助手としてブラック本家の居所に出向くことになっ
た。リーマスはブラック侯爵夫人から美容液などの調合をよく頼まれる
らしい。リーマスはシリウスの居所よりいっそう豪奢なブラック侯爵家
の居所でも落ち着きはらって、ピーターにもいつも通りにしているように
と穏やかな声で言い聞かせたが、ピーターは緊張を抑えられず小太り
の足を小刻みに震わせていた。
 権高で尊大で高慢な貴婦人に足蹴にされるのだ。いや、卑しい身分
の自分は部屋から摘み出されるかもしれない。召使いたちが扉の前に
並んで侯爵夫人を迎える準備をしている。扉が開かれると何か眩しい
一団が部屋に入ってきた。あっという間に華やかで陽気な空気が部屋
に充満した。目映い一団の最も輝きを放つ中心がリーマスとピーター
の前に立った。慌ててお辞儀をすると、

「ドクター、今日は助手の方もご一緒なのね。まぁ、小さくて愛らしいこ
と。顔を上げてご覧なさいな」

 典雅だが軽やかな声に命じられるまま恐る恐る頭を上げると、あっと
声を出しそうになった。豊かな黒髪、銀灰色のアーモンド型の瞳、完璧
な造作の美貌をしている主人とまったく同じ顔をした輝くような貴婦人が
目の前にいたのだ。

(2012.6.30)


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