鹿と小鳥 第11話

 厨房は甘く香る熱気に包まれていた。石造りのオーブンから次々と
優しい卵の黄身色をしたケーキが取り出されてくる。表面に微かに
焼き目がついており、ふんわりとやわらかく膨らんでいるのが見た
目でわかる。この屋敷の主人であるシリウスとその弟であるレギュラ
スは、一つ一つのケーキの出来を真剣な表情で検分していた。
先に焼かれて熱がとれた一台のケーキに、厨房頭のジョンがナイフ
がそっとナイフを入れて切り分けていく。先にシリウスが一切れとっ
て口に入れ、レギュラスも兄に倣う。

「うん、いい味だ」

高貴なるブラック兄弟は、相似した美しい顔を見合わせて肯き合い、
厨房頭と助手達を労った。
厨房頭のジョンは、熱気で禿げた頭部も頬も赤くしていたが、満足
そうにお辞儀した。ここのところ連日、主人であるシリウスとフランス
から一時帰国中の弟のレギュラスは、厨房に足を運んでいたのだ。
事の起こりは、シリウスがレギュラスに屋敷の中を案内して歩いて
いた折、厨房にまでやって来た事から始まった。また主人の気紛れが
始まったと思いながらも、ジョンは丁重に主人の弟君に厨房の中を
案内した。シリウスと瓜二つの美貌を持つレギュラスが現れた為、
厨房の女達は、シリウス一人の時の二倍興奮し蜂の巣を突いたよう
な騒ぎになったが、レギュラスは物珍しさからかジョンの説明に熱心
に聞き入っていた。
 その翌日にまた兄弟が揃って厨房に現れたのでジョンは不吉な
予感を覚えたのだが、案の定というべきかレギュラスが羊皮紙を
胸元から取り出した。
 レギュラスはフランスの宮廷で過ごしているのだが、そこである
老伯爵夫人と親しくなったのだという。高齢のために午後はソファで
退屈に過ごすことの多い老伯爵夫人にレギュラスは本を読んだり、
詩を作ってきかせたりして慰めていたらしい。老伯爵夫人はレギュラ
スの心遣いにいたく感謝し、秘伝のケーキのレシピを特別に授けて
くれたのだという。
もちろんそのケーキは伯爵夫人のサロンの自慢の一品でレギュラ
スも振る舞われたことがあり、その美味に感動したということだっ
た。

「できるか?」

とシリウスに聞かれ、読み聞かせられた羊皮紙のレシピの材料か
ら察するに要はチーズケーキで、特別な事は見当たらなかったので
大丈夫だろうと引き受けてからが大変だった。菓子作りが得意な者
を三人選び自ら指揮して作り上げ、翌日、シリウスとレギュラスが味
見した。
シリウスは美味いと言ったのだが、レギュラスは僅かに首を傾げた。
少し味が違うと言う。それからが、材料を吟味し直し、手順を厳格
に守り、焼き加減に心を砕き、レギュラスが納得するものができるま
で恐ろしい量の砂糖とチーズと小麦粉が消費されることになった。
シリウスは直接的だが、レギュラスははっきりと否定はしないかわ
りに、あくまで自分がイメージしているものが出来あがっていないと
小首を傾げて納得していない様子をするので、それはそれで厄介
だった。酸味と甘味のバランス、ほどよいやわらかい食感などレギ
ュラスの舌を満足させるものを作りあげるのは大変なことだった。
そしてやっと、老伯爵夫人のサロンの味が再現できたと思えば、
今度はシリウスがもっと美味になるかもしれないからとアイディアを
出してきた。
 生の果実を入れて焼いた場合、ジャムを混ぜた場合、焼きあがっ
たものの表面に塗った場合、ケーキを横半分に切って間に挟んだ
場合など、様々な案が試されたが、結局はシンプルな伯爵夫人の
オリジナルのレシピが一番だという結論に落ち着いたのだった。
 ジョンは、主人達を満足させることができた自分を誇りに思い
安堵した。門外不出のレシピのこのケーキを外に売りに行くことを
厳禁されたのは残念だったが、シリウスの発案のアレンジした方
ならよいのではないかとこっそり何とか抜け道を探ろうとしていた。

 シリウスとレギュラスは、ジョン改心の作のケーキと葡萄酒の
ボトルとゴブレットを携えて、リーマスの部屋を訪れた。シリウスは
使用人達のことを話すのはリーマスの部屋でと決めているのだ。
医学書が並んだ本棚の他は、机と椅子が数脚に寝台があるきりの
殺風景な部屋だが、部屋の主と同じで気持ちが落ち着くので、シリ
ウスは気に入っていた。

「その巻物は何だ?」

リーマスは、ちょうど何かを読んでいるところだった。

「ジェームズからだよ。セブルスはあの後、前から話していたように
言葉を話すようになったそうだよ。そのことを事細かに書いてある。
よっぽど嬉しかったんだろうね。あの時は、驚きを顔に出すとセブル
スが怯えるのではないかと思って敢えてさりげなく振る舞っていた
らしい」

レギュラスは、セブルスの名前を聞いて穏やかな微笑みを浮か
べた。

「どうして急に話せるようになったんだ」

「もう準備はできていたのだと思うよ。ジェームズとの生活に慣れ
て安心して過ごしていたからね。迷子になったのが良いきっかけに
なったのかもしれない」

何だかよくわからないが、あの変な子どものことなのでそういうこと
もあるのかもしれないとシリウスは内心考えた。

「そうそう、セブルスのガウンが出来上がってきたそうだよ」

「ふうん。それなら一度、ジェームズ達のところに行くか。レギュラ
スも来いよ。ジョンが例のケーキを焼くのに成功したことだし、直接
渡した方がいいだろう」

「ええ、間に合わなければ、兄さんに届けてもらおうと思っていま
したが。フランスに戻る前に、もう一度あの可愛らしい方にお会い
したいです。小さな方にもきっと喜ばれる味ですよ」

「これ、このあいだ話してたケーキ?さっきから甘いいい匂いが
するなぁと思っていたんだよ」

甘いものに目がないリーマスが嬉しそうな声を出した。珍しく子ど
ものように喜ぶリーマスに、完璧なものができてから味見させよう
と思っていたんだとシリウスがレギュラスに目配せしながらちょっと
自慢そうな口調で話した。
リーマスが机の上のジェームズからの巻物と本を片づけると、シリ
ウス達が持参したケーキと葡萄酒を並べた。ケーキの味を誉め讃
えたり、ジョンがこのケーキを売り飛ばしたら老伯爵夫人の名誉の
ために縛り首にしようなどと冗談を言いながら和やかに過ごしてい
たのだが、

「それにしても、ジェームズは何であの子どもをあれほど大事に
するんだろうな」

シリウスが急にセブルスのことを話題に出したのでリーマスが驚い
ていると、レギュラスが兄に答えた。

「僕はわかるような気がしますよ。ジェームズは家族を亡くして
いるでしょう。だから、あの小さなレディのことをかけがえもなく
大切に想っているのではないでしょうか」

「でもあんな愛想のない子どもをわざわざ引き取らなくてもいい
だろう。見た目も全然、ポッター家らしくないじゃないか」

「あの方を見つけた時、宮廷であのように澄んだ瞳をした人を初め
て見たので僕はとても驚きました。あの可愛い人は、何処か世俗
を超えたところがありますよ。ジェームズが片時も離さずに大切に
養育しているのが理解できるような気がします」

自分にはさっぱり理解できないとシリウスは思ったが、いつにな
く多弁なレギュラスにリーマスも賛同している様子だったので、渋
々だがさもわかったかのような顔で肯いたのだった。

(2011.9.30)

 

 
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