真夏の正午 2

 ハリーは机に向かって宿題をし始めたが、すぐに飽きて羽根
ペンを投げだして、ラジオのスイッチを入れた。妖女シスターズ
の新曲が流れてきたのでボリュームをあげる。曲に合わせて
踊っているとTシャツが汗ばんできて、曲が終わった後何とな
く損をした気分になってしまった。汗の染みたTシャツをベッド
の上に脱ぎ捨て、新しいTシャツに着替えてから、思いついて
コロンを首筋に吹きつけた。これは女の子と交際するようにな
ってからするようになった習慣だ。それから大して空腹でもな
かったがまた下のキッチンを漁りにいきかけたその時、ハリー
は胸騒ぎを覚えて窓辺に向かった。庭を見渡すと日差しが強
くなっただけで何も変わりはない。ハリーは眼鏡をかけていな
ければ至近距離のものも見えない近視だが、空中のスニッチ
は誰よりも素早く見つけられる不思議なグリーンアイで庭の一
点を見つめた。先程見たときと変わりはない。ベンチにも容赦
なく太陽の強い光が降り注いでいるのに、スネイプ教授はまだ
座っていた。異変を察知するなりハリーは部屋を飛び出し、
階段を荒々しい足音をたてて駆け降りて庭に出ると一直線に
ベンチに向かった。
「プロフェッサー?」
 声をかけても返事はない。そっと肩に手を置くとスネイプ教授
の背中はずるりとベンチの背もたれから滑り横になってしまっ
た。スネイプ教授は意識を失っていた。学校では首の上まで
きっちり留めてある釦が二、三外されてあり、青白い首が見
える。暑さを感じてベンチで休んでいる間に一気に具合が悪化
したに違いない。ベンチにもこの時間は直射日光が照りつけて
いるので、少しも日除けにならないのだ。
ハリーは不安になってスネイプ教授を見た。眉は顰められ、瞼
は閉じられていたが、息苦しそうな溜息をついているので死ん
でいないとわかった。少しだけほっとしたが、すぐに家に運ん
だ方がいい。揺さぶるか声をかけて起こした方がいいのかも
しれないが、何だか怖かった。
 誰にも打ち明けたことはないが、ハリーの心に燻るセブ
ルス・スネイプ教授への鬱屈した怒りを含んだ不満は、数年
の間に熟成され暗く湿った妄想を密かに生んでいた。ハリー
はスネイプ教授の理不尽にしか思えない叱責を受けた夜に
教授を罰する夢を見るようになった。夢の中でハリーは、あの
常に黒い布で隠されている教授の白い身体を剥き出しにして
罰を与えていた。誰にも打ち明けたことはない秘密だが、夢
で教授を汚すことは、現実に女の子に触れるよりも興奮する
体験だった。
 今、目の前にいるスネイプ教授と、ハリーが夢で苛んでい
る教授は同一ではないのはわかっているが、ハリーは現実
の教授を汚してしまいそうな錯覚に囚われ、顔を歪めて頭
を振ると、視界にブランコが目に入った。子どもの時、ハリー
はブランコを思い切り漕いでおいてから手を放して飛ぶのが
好きだった。おそらくふとした思いつきで始めたのだと思うが、
空中でくるくる回転し、ぴたりと着地する。大抵成功したが、
失敗しても地面を転がるだけだ。あの頃は何も考えていな
かったからか恐怖心とは無縁だったので失敗したことはほと
んどなかったが。もちろんスネイプ教授にも数え切れないく
らい披露した。魔法力が自分でコントロールできない年頃
というのはある意味自由に能力を発揮できるということで
もあり、空中宙返りは当時のハリーの特技だった。ブランコ
から飛ばなくても、しょっちゅうジャンプしては空中をくる
くる回転していたのだ。シリウスを筆頭に周りの大人たち
がブラボーと拍手喝采してくれるので調子に乗っていたとこ
ろもある。スネイプ教授は現在、ハリーがクディッチの英雄と
してスポイルされていると公言していて、それを矯正すると
いう理由でハリーを常に監視しているが、当時は幼いハリ
ーが怪我などしないようにと心配して見守ってくれていた。
その視線が嬉しくて、小さなハリーは更に勢いよく飛び上
がり、気持ちが悪くなるまでくるくる回転するのが常だった。
 ハリーはブランコから視線を意識のないスネイプ教授に戻
し、一瞬迷った。子どもの頃は平気でべたべた触っていたが、
今の自分が教授に直接触れてはいけないような気がする。
しかしハリーはポケットから杖を取り出すと、ぐったりしてい
るスネイプ教授に向けた。集中して杖を振ったのがよかった
のか、スネイプ教授の身体は仰向けに浮きあがった。スネイ
プ教授の背中と足の下に腕を添えると魔法が解けたので、
ハリーは足を踏ん張り、腕に力をこめて教授を抱える。意外な
ことにそれほど重くなかった。クディッチのチームメイトたちと
比較してはもちろん、ハリーが知っている数人の女の子たち
の重さとあまり変わらないように思える。威圧的な態度に圧迫
されていて忘れていたが、スネイプ教授はかなり痩身だ。ハリ
ーは大切な貴重な脆い磁器を扱うようにスネイプ教授を腕に
抱えると家に向かってしっかりとした足取りで歩きだした。薬草
の匂いがふわりと鼻につく。セブルス・スネイプ教授特有の香
りだ。もう何年も嗅いでいなかったが昔と少しも変わっていな
くてとても懐かしい気がした。
 今のソファに教授を静かにおろすと、慎重に楽な姿勢をとらせ
る。額や首を濡らした布か氷嚢で冷やした方がいいのかもしれ
ないが今すぐスネイプ教授に目を覚まされるとどうしていいの
かわからない。ハリーは教授が倒れる羽目になった薬草がな
いことに気づいたので、慌ててベンチまで走った。薬草の入っ
た籠はベンチの下の陰に置かれてあったが、萎れかけてい
たので急いで家に戻って水を入れた硝子瓶にまとめて活けて、
気絶している教授の傍のテーブルの上においておいた。
ハリーは何だか見舞いのようだと思って可笑しくなってしまった。
キッチンに行き、食器棚から大きめのグラスを出し、アイスティ
ーの入ったピッチャーをとろうとして、ふとクディッチの練習後に
マネージャーが用意してくれている飲み物を思い出した。詳し
いレシピは知らないが、疲労を回復させるものが入っていた
筈だ。ハリーは素早く考えて、ジンジャーシロップとエルダー
フラワーコーディアルの瓶とレモンを取ってきた。ジンジャー
シロップとエルダーフラワーは母の手製だ。味と効能は折り
紙つきだが、紅茶に入れる適量の見当がつかないので、
レモンを入れることにする。ハリーは焦っているのでいつも
より不器用な手つきでレモンをスライスしはじめた。魔法薬
学教室の授業中なら絶対にスネイプ教授が注意してきただ
ろうが、本人は気絶中だ。ギザギザの断面のレモンのスラ
イスが三枚できたところで、ハリーは閃いて残りのレモンを
ピッチャーの上でぎゅっと絞った。一色明るい褐色に変化
したアイスティーに満足を覚えたハリーは、ピッチャーとグラ
スを持って居間に引き返した。居間にはいると、いつの間に
か猫のジョーがソファにあがり、興味深そうにスネイプ教授
の顔を見ていたので、
「ジョー、だめだって」と声をかけると同時にむくりとスネイプ
教授が起きあがったので、ハリーは驚きのあまりピッチャー
を落としそうになった。途端に緊張して心が重くなったが、とり
あえず教授にアイスティーをぐいぐいと押しつけ、熱中症で気
を失っていた教授を見つけて家の中に運んだ状況を説明した。
スネイプ教授は気がついても、やはりいつもより弱っている
様子で、ハリーの勧めるアイスティーを三杯立て続けに飲み
干してやっと黒い眸に生気が戻ってきた。急に自分の服を熱
心に嗅ぎだしたのでハリーが何事かと身構えると、ハリーに
自分を運んできたのかと尋ねた。ハリーはこれは誘導尋問な
のかと不審に思いつつ、自分の汗の匂いを不快に感じたの
かもしれないと気になって尋ね返すと、
「コロンとお菓子」と教授は的確に匂いの正体を当て、突然、
物体を浮上させるやり方の指導を始めた。スネイプ教授は
杖を構えると、ハリーの身体を浮かせて、また一振りでソフ
ァに降ろして見せた。力任せのハリーの杖使いと違って、適
切でありながら優雅な魔法だ。スネイプ教授が普通にハリー
に話しかけてくるので、ハリーも同じように答える形で会話
することになったが、教授がハリーの交際まで把握してい
たことには驚かされた。ハリーは母のお喋りぶりに呆れたが、
スネイプ教授が普段とは違って叱責してこなかったので、その
後もぽつりぽつりと話し続けた。二人きりで話し合うなど数
年ぶりのことだ。客観的に見てスネイプ教授は知性的で物
静かな魔法使いだった。昔はそのことをよく知っていたが、
長い間忘れていた。
「あっ、薬草はこれですよね?」
ハリーが目に留まった硝子瓶にいけてある薬草を指さすと、
スネイプ教授は何か言いかけたが、そうだと肯き、ハリーに
礼を言った。教授の一瞬の躊躇いを見逃さなかったハリーが
スネイプ教授に神経質に問いかけかけたその時、薬草の束
は痙攣のように細かく震えだし、次々に開花していきあっと
いう間に満開になった。唖然としているハリーにスネイプ教授
は別に構わないと声をかけた。構わないことはないだろう。
草と花では大違いだ。教授は真夏の炎天下、熱中症で倒
れるまで作業をしていた。必要がなければわざわざそんなこ
とはしなかった筈だ。
「そろそろ失礼する。ハリー、いろいろ世話をかけたな」
数年ぶりで名前を呼ばれたのでハリーははっとしたが、スネ
イプ教授は深い考えがあってのことではないのでハリーの
動揺に気づかずに、花束を掴んですたすたと庭に出た。
ハリーもスネイプ教授の後に続く。スネイプ教授は姿眩ましで
帰るらしい。ということはおそらくスネイプ教授は実家に戻って
いるのだろう。ホグワーツは姿眩ましも姿現しもできない。スネ
イプ教授の実家はスピナーズエンドというところにあって、少し
離れた所にハリーの母の実家もある。
スピナーズエンドのスネイプ教授の実家には子どもの頃、何度
か遊びに行ったことがある。あの頃から教授はあまり変わって
いないのに自分は随分変わって可愛くなくなってしまった、と
いうより憎たらしい感じに成長した。別にそれでいいけど、と
ハリーは慎重に姿眩ましの安全確認をしているスネイプ教授
を見つめながら考えた。いつの間にか足下に猫が蹲っていた
ので、何となく抱き上げる。スネイプ教授に別れの挨拶をする
べきなのかもしれないが、わざとらしい気がしたので黙ってい
た。スネイプ教授も特に咎めてこなかったのでどうでもいいら
しい。スネイプ教授は猫を抱えて立っているハリーに肯いて見
せると素早くその場を旋回して消えた。余韻のない別れ方だっ
たが、ハリーは猫を抱いたまま、しばらくスネイプ教授が立って
いた場所を見つめていた。

(2014.6.17)
 
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