真夏の正午1

 真夏の正午過ぎ、強い日差しが照りつける庭を急いで突っ
切りながら、15歳のハリー・ポッターは汗が顔の皮膚をつたっ
ていく不快な感触に眉を顰めた。眼鏡を上にずらして手で汗
を拭ってからかけ直すとまた走り出す。


 時計の針が進む音が気になるほど家の中は静かだった。
両親は旅行に出かけていて、ハリーと家の何処か涼しい場所
で寝ている猫以外誰もいない。梟のヘドウィグは親友のロン・
ウィーズリーのところに手紙の配達に出している。昨日、家に
ハリーのガールフレンドの梟が一通の手紙をハリーに届け
た。それは別れを告げる手紙で、要するにハリーは振られた
のだ。ヘドウィグに託したロンへの手紙にはその事について
書いてある。新学期になった時にどのように振る舞うべきか
アドバイスを求めたのだ。同じ寮の子とつき合うとそのあたり
のことが面倒だ。次の相手は違う寮の子にした方がいいの
かもしれない。そういうわけで一週間前の予定では今頃は二
人でダイアゴン横町でデートしていた筈が、現在一人で箒の
手入れをしているのだが、ハリー・ポッターは一人でいること
が苦手ではなかった。ハリーは類稀なクディッチの才能とある
事情でホグワーツ魔術魔法学校の人気者だが、ポッター家の
一人息子として生まれ育ったのでホグワーツ魔術魔法学校に
入学するまでは、他の子どもたちと遊ぶ機会があまりなかっ
た。父のジェームズも一人っ子だったし、母リリーはマグル出
身だったので母方の親戚とは疎遠だった。ゴドリックの谷に
あるポッター家には両親の友人たちが頻繁に出入りして賑や
かで、生まれたときからハリーはその中心にいたし、若い両
親はまるで兄弟のように一緒に遊んでくれたが、普段はやは
り一人で遊ぶことが多かった。しかし、そのことに寂しさや退
屈を覚えた記憶はほとんどない。
普段、寮で集団生活を送っていると一人になることはまずない
し、学生がいる場所は図書室にでも行かない限り静寂とは
無縁だ。ハリー・ポッターがホグワーツ魔術魔法学校に入学
して以来、五年生になる今年まで図書室を訪れたのは一年
生の時にクディッチ関連の本を探しに行った一度きりだった
が、部屋にいる人間が全員無言で読書している空気に息が
詰まりそうになって以来、図書室には近づかないようにして
いる。
 ハリーは自分の部屋の寝台の上で胡坐を組んで競技用箒
ファイアボルトを磨いていた手を休めて、壁の時計を見た。
先ほど時間を確かめてからまだ十分ほどしか経っていなか
ったので、何となく溜息をついてしまった。箒を立てかけて
寝台を降り、窓まで行って庭を見下ろしてみた。夕方になった
ら芝生に水を遣るように両親から言いつけられているが、ま
だ正午過ぎだ。ハリーが庭の隅にある母のハーブ園に視線を
あてると、薬草の茂みに立っている人物がすぐに見つかった。
長い黒髪に黒づくめの服装をしている以外のことは、眼鏡を
かけていてもハリーの視力では判別できないが、それが誰
であるかはよく知っている。茹だるような炎天下に帽子もか
ぶらずに鬱陶しいほど旺盛に伸び盛っている薬草を黙々と
摘んでいる、細くて長い指先で薬草を選別し、おそらくその
指を緑に染めて作業しているのは、ホグワーツ魔術魔法学
校の魔法薬学教授セブルス・スネイプだ。母親から庭の魔
法薬を摘みにくるスネイプ教授に挨拶して、冷たい飲み物を
出すように言われているが、気が重いので無視する予定だ。
スネイプ教授はハリーの母の幼馴染なのだ。スネイプ教授
はその厳格さでスリザリン寮以外の学生から蛇蝎のごとく
嫌われている。
 今となっては信じられないことだが、子どもの頃、ハリーは
スネイプ教授に時々遊んでもらっていた。そして、おそらくだ
がとても可愛がられていたのだ。嘘みたいだが思い出はたく
さんある。ホグワーツの教師をしているセブルス・スネイプと
ゴドリックの谷で暮らしていた幼いハリーが会う機会は学校
が休暇の時に限られていたので、それほど頻繁ではなかっ
た。しかし、そのためかセブルスとの思い出はどれも胸が
痛くなるほど懐かしいものだ。ハリーはいつしか胸の痛み
に耐えられなくなってセブルス・スネイプとの思い出は心の
奥底に鍵をかけてしまいこんでから、鍵を投げ捨ててしまっ
た。
 ハリーに物心というものがついた時にはセブルス・スネイプ
は特別な人だった。セブルス・スネイプが両親の友人たちの
中で一人異質な存在であることを幼いハリーは敏感に感じ
取っていた。今になってみれば、それはグリフィンドールの
集団のなかにスリザリンが一人混じっていたからだとわか
る。両親の友人たちは皆ハリーのことをとても可愛がって
くれたので誰のことも大好きだった。しかし、セブルス・スネ
イプはその中で常に一歩下がった場所にいるように幼い
ハリーは感じられ、自分が一歩踏みだしてセブルス・スネ
イプの傍にいるべきだという風に考えて素直に実行してい
た。セブルスがハリーに冷淡だったというわけではなく、ま
とわりつくハリーにいつでも優しくしてくれた。ゴドリックの
谷のポッター家でハリーの遊び相手になってくれたことは
もちろん、デートと称して一緒に出かけたり、スピナーズエ
ンドのスネイプ家に泊まりに行ったこともあったし、これは
本当に特別なことだったが、ホグワーツのスネイプ教授の
私室に一泊したことまであったのだ。一つの寝台で一緒に
眠り、ハリーはスネイプ教授の低い滑らかな声の子守歌を
聞き、薬草の清潔な香りに包まれたことをよく覚えている。
父親譲りの羊のような癖毛に象牙のように白く長い指を
巻き付けながら撫でてくれた感触の心地よさも忘れては
いない。
 ハリーがカーテン越しに見ているとも知らずに、スネイプ
教授は俯いて薬草を摘み続けていた。教室でも廊下でも
気がついたときにはスネイプ教授はハリーの背後にいて
校則違反を口煩く注意してくるのだが、今日は立場が逆だ。
ハリーはスネイプ教授に背後から注意されるのが大嫌い
だった。監視されているというと大げさかもしれないが、些
細なことで揚げ足を取られるような注意が度重なるうちに、
後ろを振り返ってスネイプ教授がいないか確認するのが
癖になってしまった。スネイプ教授は猫科の動物のように
足音をたてないで歩くので、背後に姿を見た時にはぎょっ
としてしまうのだった。
相変わらずハリーの視線に気づくことなくスネイプ教授は
やっと薬草を摘み終えたのか薬草の入った籠を日陰に置
くと、ベンチに腰を下ろした。流石に疲れたらしい。今、飲
み物を持っていったら気が利いているだろうが、放ってお
くつもりだ。用事が済めばさっさと帰ればいいのだ。休暇
中まであの陰険な教授と関わりたくない。ハリーは部屋を
出て、階段を一応忍び足で下りるとキッチンに行き、魔女
かぼちゃジュースをピッチャーに口をつけてがぶ飲みした。
母はスネイプ教授用にアイスティーを用意していったよう
だが、それには手をつけないでおく。母のアイスティーは
ヴェルガモットの香り高いアールグレイに砂糖少々を溶
かしてから急速に氷で冷やして作る。子どもの頃から幾度
となく作るところを見てきたので作り方はよく知っている
が作ったことはない。昔、夏の休暇中にゴドリックの谷を
訪れたスネイプ教授と一緒によく飲んだものだ。まだ小さ
な子どもだったハリーは牛乳で割ってもらって飲んでいた
が、スネイプ教授はもちろんそのままで飲んでいた。一緒
に飲んでいる時に、ハリーがスネイプ教授を見上げると、
大抵スネイプ教授はおかしそうにくすりと微笑んで、
「ハリー、ひげがついてるぞ」と自分の鼻の下を指さして教
えてくれる。意味がよくわからないハリーがきょとんとして
いると、スネイプ教授は自分のハンカチでハリーの口の
まわりをそっと拭いてくれるのだった。あの頃のハリーは
セブルス・スネイプの微笑みに魅了されていた。元々、
表情が豊かな人ではないので声を出して笑うことなどは
ほとんどなかったが、口角を引き上げて微笑むと白い花
がふわりと咲いたような優しい雰囲気になる。あの微笑
が最後にハリーに向けられてからもう何年も経つ。ハリー
は魔女カボチャジュースを持って、二階の自分の部屋に
戻ると、クローゼットに隠してあるハニーデュークスで買った
スナック菓子の袋を開けて、好きなだけ食べ散らかした。
夕食はゴッドファーザーのシリウスがロンドンに連れて
いってくれるので、昼は適当に菓子で済ませておくのだ。
 ホグワーツ魔術魔法学校に入学する前、ハリーはセブ
ルスと二人で話をした。セブルスはホグワーツの教師な
ので、ハリーがホグワーツに入学したらこれまでのように
個人的な関わり方はできなくなること。それは特定の
生徒を贔屓するわけにはいかないからでハリーのこと
を嫌いになったわけではないこと。よく勉強して、たくさ
んの友だちを作り、立派な魔法使いになってほしいと
願っていること。セブルスの真剣な言葉に、ハリーは
わかったとこくりと頷いてセブルスと約束した。しかし
本当は7年間の別離がどういうものか全く理解できてい
なかったのだ。七年という月日の長さ、その間に自分
がすっかり大きくなって、まるで別の人間みたいになる
という現実を。
 魔法使いの家に生まれた魔法使いとはいえ、学校で
正式に魔法使いとしての教育が開始されると始めての
ことばかりだ。ハリーはこれほど多くの同じ年頃の子ども
と接したのは初めての経験だったが、緊張しながらもとて
も楽しくてしばらくセブルスと親しくできない寂しさを忘れ
ていた。セブルス・スネイプ教授の魔法薬学の授業は一年
生に対しても、とても厳しいものだった。ハリーは始めてみ
るセブルス・スネイプの教師としての姿の厳粛さに吃驚して
しまったが、スネイプ教授はハリーのことを本当に生徒の一
人としてしか見ていないように扱った。ハリーがセブルス・ス
ネイプに失望したのはそれからしばらく経ってからのことだ。
それはハリーが百年ぶりの最年少シーカーに特例で選ばれ
た時だった。
 ハリーは歩くよりも箒に乗って飛べるようになる方が早か
ったと両親やその友人が賞賛混じりの笑い話にするくらい
幼い頃から箒に親しんでいたので、ホグワーツに入学した
時点で、箒の飛行訓練の授業で教わることはすべて簡単
に出来た。父のジェームズはグリフィンドール寮のクディッ
チチームの伝説的な元選手で、プロチームからもスカウト
されていたほどだったらしい。ハリーはその才能を受け継い
だのだ。実は、グリフィンドール寮監のマクゴナガル教授は
ハリーの入学を指折り数えて待っていたらしい。組分け帽
子をかぶるまでもなく、ジェームズ・ポッターとリリー・エバ
ンズの息子ならばグリフィンドール寮に入ると確信してい
たという。一年生の最初の飛行訓練の授業の日、マクゴ
ナガル教授とダンブルドア校長が連れだって現れた。急に
校長が参観を思い立ったということだったが、二人の目は
ハリー・ポッターだけを鋭く観察していた。
ハリーが特例で最年少のシーカーに選ばれた後、セブルス・
スネイプ教授とスリザリン寮生全員が異を唱えて反対して
きたのは想定内の事態だったと言える。年少の者がクディ
ッチに参加する危険性を唱えつつも要はグリフィンドール生
への優遇が気に入らないのだ。
もちろんグリフィンドール寮は一丸となって、文句は試合で
ハリー・ポッターを見てからにしろと対抗し、ハリー自身は
失望したのだ。セブルス・スネイプに対して。
セブルス・スネイプは、ハリーの箒の飛行能力をホグワーツ
の中で誰よりもよく知っている筈だ。スネイプ教授にとって、
ハリーよりもスリザリン寮の優勝の方が大事なのだ。そして、
最悪なことには、ハリーが初出場したスリザリン対グリフ
ィンドール戦で見事にスニッチを穫り、一躍小さな英雄となっ
てからというものスネイプ教授はハリーが傲慢になっていると
指摘し、事あるごとに監視して厳しく注意してくるようになっ
た。英雄扱いするのは周囲であって、ハリーにはどうしよう
もないではないか。見当違いも甚だしいので放っておいて
ほしい。ハリーは苛立ったが、スネイプ教授は蛇のような
執念深さでハリーを監視し、事あるごとに見当違いにも矯正
しようとしてきた。そして更に嫌だったのは、スネイプ教授の
ドラコ・マルフォイへの依怙贔屓だった。ドラコは、ハリーの
両親と父方の親戚のほとんどがグリフィンドール出身であ
るように、両親、親戚がスリザリン出身で本人ももちろん
スリザリンだ。ハリーとはホグワーツに入学する前に何度
か顔を合わせたことがあり、当時から気に入らなかったの
だが、同級生として接するようになると、はっきり大嫌い
だと思うようになった。ドラコは純血の名家出身を誇って
いるが、それはたまたま生まれついただけで、ハリーの
ように本人に突出した才能があるわけではない。自分に
優れているところや努力して得た才能があるわけでもな
い癖に、内気で万事おっとりしているネビル・ロングボト
ムを馬鹿にしたり、ロンの兄たちからのお古の持ち物をこ
れみよがしに嘲笑したり、マグル出身の秀才ハーマイオニ
ー・グレンジャーを侮蔑するので、ハリーは身の程を知れ
と思うのだ。ドラコはハリーを何故か自分のライバルと
認識しているらしく、しょっちゅう挑発してくるので、ハリー
も売られた喧嘩は買うことにしていたが、最終的にドラコ
はいつでもスネイプ教授に泣きつく。そして、スネイプ教
授はハリーがドラコを苛めていると言うのだ。信じられない
濡れ衣だった。
「セブはね、ドラコは本当はハリーと仲良くしたいんじゃない
かって言ってるのよ」
 休暇で帰省したハリーが母親にドラコ絡みの理不尽な扱
いに文句を吐き出していると、母がそんな事を言い出した
のでハリーは唖然とした。母にではない。スネイプ教授の
素っ頓狂な見解にだ。ハリーはドラコ苛めの濡れ衣を着
せられたストレスを梟便でゴドリックの谷に書き送った。
両親は子ども同士の喧嘩ということで静観するつもりだっ
たらしいが、一応リリーが幼なじみのスネイプ教授に連絡
して話を聞いてみたのだ。
「ドラコって、お家からのプレッシャーが物凄いんですって。
何でも一番になれって言われてるらしいわ」
 クディッチはハリー、勉強はハーマイオニーに絶対に勝
てないのでドラコは精神的に追いつめられているのだと
いう。ハリーはドラコの父親を見たことがあったが、確か
に貴族趣味が鼻につく高慢ちきだった。
しかし、どんな事情があろうとハリーはドラコを許す気に
はなれなかった。ドラコ・マルフォイはネビルやロンやハー
マイオニーを嘲笑するような卑怯な真似をせず、金属箒で
親を殴るなり、窓硝子を叩き割るなりすればいいのだ。
ハリーが口を尖らせてそう言うと、母はそんな意地悪な
こと言わないのと窘めたが、ハリーの大好物の糖蜜
パイを出してくれた。ハリーはねっとりとした歯と歯が
くっつく食感と甘さを楽しみながらパイを食べたが、スネ
イプ教授のローブに逃げ込むドラコ・マルフォイの姿を苦
々しく思い出して眉を顰めた。 

 
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