Blue Moon 前編

 門のところに馬車が止まっていた。ダンブルドアが呼んでおいてくれた
のだ。一年間を過ごしたホグワーツを、最後にもう一度見ておこうとリー
マス・ルーピンは周囲を見渡した。この古城は学生時代を過ごした思い
出の場所でもあったので、そこかしこが懐かしく離れがたかった。ふと
気配を感じて、視線を凝らすと少し離れた場所に黒衣の男が佇んでい
るのが見えた。実を言えばホグワーツを離れなければいけなくなった直
接の原因はこの魔法薬学教師にあったのだが、同時に長くここにいら
れない根本の理由はリーマス自身にあり、最初から覚悟していたこと
でもあった。彼は遠目に平静そのものに見えた。リーマスを追い出して
勝ち誇った表情を浮かべるでも、後悔の情を見せるでもなかった。黒い
瞳はリーマスを見つめている。リーマスも色素の薄いブルーの瞳で黒
衣のセブルス・スネイプを見つめた。そういえば昔から、彼にいつも何も
言えずにいたことを思い出した。そしてそのことをずっと後悔し続けてき
た。しかし、今、声をかけないのは、もう話す必要がないからだ。青白く
一見無表情な男に、リーマスは笑いかけた。笑顔を覚えておいてもらい
たかった。それから、彼に背を向けるとまっすぐに門に向かって歩きだ
した。馬車が発車する時、硝子越しに黒い人影が見えた。無言のスネ
イプに見送られて城を後にした馬車の中、馬の掛ける規則的な振動に
身を任せながら、リーマスの心は穏やかに澄んだ青空のように晴れて
いた。


【一年前】
 円形の美しい部屋は、入り口の近くの金の止まり木では不死鳥が
真紅と金色の羽を休め、精密な銀の道具類は規則的に丸い煙を吐き
ながら動き、周囲を歴代の校長の肖像画に見守られて秩序の中にも
静かで愉しげで、現在の部屋の主であるダンブルドア自身とどこか似
通った雰囲気だった。しかし、この部屋に呼ばれて来た魔法薬学教
授は険悪な表情を漲らせていた。

「セブルス、君も旧知のこのリーマス・ルーピンを、来年度の闇の魔術
の防衛術の教師として迎えることになった」

険悪な視線を気にしないそぶりで、ダンブルドアは魔法薬学教授に新
しい闇の魔術の防衛術の教授を紹介した。

「私の記憶によれば、この男には教壇に立つには重大な不都合がある
と思いますが。ホグワーツは生徒達の生命の安全に関して責任がある
のではないでしょうか」

セブルス・スネイプは、短刀突入にダンブルドアにこの人事についての
異議と説明を求めた。

「それについてセブルス、君の協力を必要としているのじゃ。最近開発
された脱狼薬を月に一度、リーマスのために煎じて欲しい。君なら完璧
に作ることができる筈じゃ。さすれば、生徒達の安全は確実に守られる」

「私が承諾するとでも?」

眉間に深い縦皺を刻んでスネイプは、ダンブルドアに問いかけた。

「是が非でも引き受けてもらわねばならぬ。シリウス・ブラックがアズカ
バンを脱獄し、ハリー・ポッターの命が狙われている今、一刻の猶予も
ならぬのじゃ」

「この男が、昔馴染みをこのホグワーツに手引きするとは思われない
のですか」

リーマスを一瞥することすらなく、スネイプは冷静な口調で校長に尋
ねた。

「セブルスよ、それは有り得ぬことじゃ。この十余年、リーマスはわし
のために働いてくれておる。リーマスの潔白はこのわしが保証しよ
うぞ」

「私の忠告に耳を貸すつもりがないのならば、お呼びにならなければ
よいではないですか。しかも私に拒否権はないらしい」

「そういうでない。君とリーマスが協力してくれなくてはならぬのじゃ」

 自分の頭上で自分について険のある攻防を繰り広げている恩師と
元同級生の魔法薬学教授を前に、リーマス・ルーピンは居たたまれ
ないような思いで座っていた。

「まぁ、お茶でも淹れようの。甘いものでも食べて話し合えば打ち解け
るじゃろう」

あくまでも柔らかな口調で重ねて説得にかかるダンブルドアに

「私は、結構です」

とスネイプは冷ややかに言い放つと、黒のローブの裾をするりと翻し
扉に向かいざま、

「満月の一週間前に私の研究室に来い」

とリーマスに言い捨てて出ていった。おぉ、セブルスや、と喜ぶダンブ
ルドアの声を拒絶するように扉は閉じられた。

「セブルスは、ぶっきらぼうなところが困りものじゃが、約束は守る男
じゃ。リーマス、これで心配事はなくなった。ハリー・ポッターとホグワ
ーツの子どもたちのことをよろしく頼みますぞ」

「私にできる限りの力で、ハリーのことを守ります」

 亡き親友の息子をかつてのもう一人の親友だった男の魔の手から
守ることは、一人生き残ったリーマスの使命だった。その任務を自分
に授けてくれたダンブルドアの恩に報いる為にも自分の命に代えて
も任務を全うする覚悟だった。

 リーマス・ルーピンははその覚悟通り、ハリー・ポッターを護衛する
目的で乗車していたホグワーツ行きの列車の中から、早速ハリー・
ポッターを危険から守った。ハリーを守護しながら護身術を教え、他の
生徒たちの安全を守る。想像以上に大変な任務だったが、同時に
充実した日々を送ることになった。そんなリーマスにスネイプは憎し
みにも似た疑惑の視線を絶えず向けていた。リーマスは校長室での
やりとりから、スネイプの信頼を得ることを諦めていたが、校長室での
発言通り満月の一週間前に魔法薬学教室におそるおそる出向いた。
スネイプは、リーマスに完璧に調合された脱狼薬を渡し、その苦くて
おそろしく飲みにくい液体を全部飲み干すまで退室を許さなかった。

「ありがとう、セブルス」

口の中のトリカブトの味に耐えながら、ルーピンは何とか笑顔を作
った。

「貴様に礼を言われる筋合いはない。生徒の安全がかかっているか
らだ」

スネイプはそう言い放つと、杖を一振りして空になったゴブレットと煎じ
ていた鍋を片づけた。

「でも、ありがとう。すごく飲みにくい薬だけれど、よく効きそうだね」

リーマスは何とか会話を続けようとしたが、スネイプは背を向けて部屋
から出ていってしまった。ハリー・ポッターが廊下を徘徊していないか
探しに行くのだろう。リーマスはそっと溜息をついた。脱狼薬は一週間
続けて飲まなければならない。一週間、リーマスが薬を飲み干すまで
の短い間だけだが、二人きりで過ごす。
まともに会話ができるようになるとはとても思えなかったが過去のいき
さつを思えば、仕方のないことだった。

 夜中に喉が渇いて目が覚めると、部屋に誰かいる気配がした。鍵を
二重にかけておいたので気のせいかと思ったが、目を凝らして見ると、
黒衣の男が窓辺の傍の椅子に腰掛けていた。
カーテンは引いてあるが、外では忌まわしい満月が明るく輝いている
はずだ。

「…セブルス?どうして」

暗闇に溶け込むように黒ずくめの男は答えなかった。ホグワーツに
赴任して数ヶ月が経っていたが、セブルス・スネイプとは必要最低限
の会話以外交わせないでいた。リーマスが話しかけても無視され、
一方的にスネイプから用件を告げられるだけだった。

「悪いけど今夜は帰ってくれないか。僕の授業を代わりにしてくれた
話なら明日きくよ。君が作ってくれた脱狼薬の効き目で今は正気を保
っているけれど、楽しい会話ができる自信はないから」

我ながら棘がある言葉を吐いてしまったと思ったが、今夜だけは一人
でいたかった。

「私は、私の薬の効果を信頼している」

「何の話があるんだ、セブルス。シリウスのことだったら僕は何も知ら
ないし、彼からハリーを守るために僕はここにいる」

「それは、貴様と校長の間の話だろう。私は信じない」

「じゃあ、何なんだい?」

苛々した口調で改めて謎の侵入者に問いかけたが、答えはなかった。
するりと立ち上がると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
今夜の自分は、薬の効果で血に飢えた獣ではない。そのことに感謝
しながら、救世主といえる男の謎の行動に心を乱された。自分を狂わ
せるのは月だけのはずだ。乱暴な手つきで水差しに口をつけて飲ん
だ。水はひどく生ぬるかった。

(2011.10.23)

                    NEXT 
 

 
inserted by FC2 system