鹿と小鳥 第70話

 
 暖炉の前に据えられた寝椅子に寝そべり、クッシ
ョンに頭をのせてセブルスは意思があるように揺れ
る炎を眺め、燃える薪の爆ぜる音を聞きながら物思
いに耽っていた。
白の寝間着の上に深緑の暖かな上着を毛布代わりに
羽織り、豊かな黒髪は解かれて背を覆っている。
短い距離とはいえ馬車の旅と、公爵家の居所への訪
問がセブルスの負担になったのではないかとジェー
ムズが心配したので疲れる入浴はしない事になった
が、乳母が熱い湯に浸してかたく絞った布でセブル
スの髪と身体を念入りに拭き清めた。飼っているマ
ルチーズたちも同じように毛や肉球の汚れを拭き
とられ、先ほどまではセブルスの膝に乗ったり、
お互いにじゃれ合って遊んでいたが、今は暖炉の
傍でそれぞれ寝入っていた。
ジェームズは少し離れた卓で家令から留守にしてい
た間の報告を受けていた。領地について話したり、
家令が運んできた金袋の中身を机の上に出して数
えたりしている。セブルスは自分で買い物をしたこ
とがないので貨幣の価値というものがわからない
が、ジェームズは真剣な表情で家令と計算してい
た。セブルスはジェームズとマルチーズたちの様
子をちらりと視界におさめて確認し、再び暖炉で
揺らめき、燃えさかる炎を見つめながら考え事に
戻った。
 シリウスの屋敷から宮廷に戻り、初めてブラック
公爵家の居所にジェームズと招かれてかなり長い
時間を過ごした。ポッター家の居所に帰った時には
やっと自分の居場所に帰れたようにセブルスはひそ
かに安堵したものだ。
それほど長い間留守にしていたわけではないのだ
が、壁のタペストリーや絨毯などの調度がひどく懐
かしく感じられた。
ポッター家の居所は一日の大半をこの部屋で過ご
すセブルスが居心地がよく過ごせるようにというジ
ェームズの意向で全ての調度品が設えられている。
セブルスはタペストリーに織り込まれてある森の
動物たちをいくら眺めても見飽きることがなく、今
のように一日の予定が何もなかった頃は日がな
鹿や小鳥を数えてみたりしていたものだった。
 セブルスは今日の出来事の中でもっとも印象
深かった公爵夫人のことを思い出し、無意識に耳
にそっと手をあてた。公爵夫人の声が耳に蘇って
きたような気がしたのだ。
「これはどうかしら」と言いながら、公爵夫人は侍
女に持ってこさせて自ら脚に彫刻が施された長卓
に並べた髪飾りを、あれこれ手にとってはセブル
スの髪にあててみた。人見知りで無口な上に着
飾ることに興味がないセブルスが返事をしなくて
もその頭上で公爵夫人や公爵、ジェームズの意
見が交わされ、いつの間にかセブルスの髪に銀
の土台に真珠と深紅のルビーで花を象った髪飾
りがつけられ、マルチーズたちまでセブルスと揃
いの深紅のベルベッドのリボンを両耳につけられ
たのだった。
ジェームズは恭しく公爵夫人に礼を言い、セブル
スには可愛いと言って喜び、レギュラスもセブル
スの黒髪に髪飾りの深紅と白がよく似合うと言
って端正な顔に微笑みを浮かべて賛意を示した。
公爵は、終始穏やかな表情で時折、会話に口を
挟んだが、しきりにまとわりつくマルチーズ達を
静かにあやしながらセブルスの様子を注意深く
見守っていた。
 セブルスは勿論公爵夫人がシリウスとレギュ
ラスの母親であると知っている。そして今日は
自分のことを娘代わりにしたいと言い、実際に
とても親切にしてくれはしたが母親というのは
ああいう感じなのだろうか。
以前、一度だけリーマスとレギュラスに話して
からはジェームズにすら話したことはないが自
分の母のことは朧気な記憶しかない。それも日に
日に薄れていくので時々とても悲しくなる。鏡で見
た自分の顔、特に髪を結った顔は母にとても似て
いるような気がするし、レギュラスに描いてもらっ
た自分の姿は大切に箱にしまってある。セブルス
が気になるのは、両親が嫌いだと公言して憚ら
ないシリウスは兎も角として、あのいつも自分に
とても優しく、また誰に対しても礼儀正しいレギ
ュラスも公爵夫人に対してどこかよそよそしい様
に感じられることだ。考え込みながら、何となく足
先を寝間着から出してみた。白い寝間着の裾飾り
から、同じくらい白い小さな足を暖炉に向けてかざ
して遊んでいると乳母が目敏く見つけて飛んでき
た。
「そんな風に素足を出していらっしゃると風邪を
ひきますよ。すぐにお休みにならないなら靴下を
おはきなさいまし」
セブルスが首を横に振って素直に足を寝間着
の中にしまうと、乳母はセブルスの上着を直して
首を冷やさないようにした。乳母はセブルスが病
気にならないようにジェームズ以上に気をつけて
いて、セブルスが身につけるものはすべて乳母が
健康を祈願しながら刺した刺繍が施してある。
それにセブルスの食欲や身の回りのことにいつ
も心を砕いていて、セブルスと目配せで以心伝心
できるほどだ。蝋燭の明かりの下では昼間より顔
の皺が深く見える。セブルスがそっと指先で触れ
ると乳母の皺はますます深くなった。優しい眸だ
った。
「まぁ、悪戯なさって。くすぐったいですわ」
乳母もセブルスの両頬を両手で包みこんで、お
互い微笑み合った。それから乳母はセブルスの
前に膝をつき、セブルスのために祈りだしたので、
セブルスもするりと寝椅子から降りて胸のところ
で手を組んで頭を垂れた。
二人で祈っているところにジェームズがやって
きた。乳母の祈りが一段落ついたところを見計
らって、
「待たせたね。留守にすると何かと用事が溜まっ
てしまっていけないよ」
と声をかけると、乳母は頭を上げて甲斐甲斐しく
セブルスに手を貸して寝椅子に座らせようとした
が、それを止めて自分も床に膝をついた。
「僕も一緒に祈ろう」
と乳母に言い、三人で暫く祈りを捧げることにな
った。
祈りが終わるとジェームズは乳母に労いを込め
た表情で目配せしてセブルスを抱き上げて寝室
に向かった。セブルスはいつもどおりジェームズ
の胸に顔を埋めていた。
 寝室はジェームズとセブルスだけが使うので
マルチーズたちが一緒に寝る時以外は、夜の間
は二人きりだ。セブルスが闇を怖がらないように
蝋燭が一晩中灯されているので部屋は調度が識
別できるくらいには明るい。
「うまくできなかった」
ジェームズに密着して横になっているセブルス
がぽつりと気になっていたことを漏らすと、ジェー
ムズはすぐに何の話か察した。
「ご挨拶かい?」
こくりとセブルスが肯いたのでジェームズは
優しくセブルスの髪を撫でて慰めた。
「お辞儀をする前に公爵夫人がセブルスに飛
びついてしまったんだから仕方ないよ。大丈
夫。お辞儀をする機会はこれからいくらでも
あるからね。次は上手にできるよ」
今日の公爵夫妻との面会の雰囲気からして、
遠くないうちにまた会う事になりそうだった。
セブルスは公爵夫人の自分に対する優しい態
度を思い出したが、ふと背筋に冷たいものを感
じてぴくりと華奢な肩を震わせた。ジェームズ
はセブルスが寒がっているのかと勘違いして、
毛布を肩に被せて抱き寄せた。
「そういえばリーマスがシリウスと一緒に宮廷に
くるそうだよ。ピーターもね。さっき早馬で知らせ
があったよ」
セブルスが目を見張るとジェームズは楽しそう
に目を細めた。
「今日別れたところなのにね。シリウスの思いつ
きらしい。本当はもうしばらく屋敷で過ごしてか
ら宮廷に戻ることになっていたんだけど。リーマ
スに君を診察してもらわなくてはいけないね。
旅で疲れたんじゃない?」
「きのう、診てもらった」
セブルスは自分に診察は必要ないという意味
を込めて事実をジェームズに告げた。
セブルスはリーマスに好意を持っているが、ジ
ェームズが何かと自分を病弱扱いすることに内
心疑問を感じていることもあり、しょっちゅう自分
の診察を頼むことは多忙なリーマスには迷惑で
はないかと思うのだ。
「まぁそうだけれど、医者に診てもらうとやっぱり
安心だよ」
ジェームズは微笑みながらセブルスの頬を長
い指で撫でた。セブルスはジェームズの、若々
しく快活な顔をしげしげと見つめた。逞しい胸に
顔を寄せると優しく抱きしめられたので、セブル
スは小さく溜息をつき、目を閉じた。こうして長
い一日はやっと終わったのだった。

(2020.3.27)







inserted by FC2 system