鹿と小鳥 第67話

 シリウスの屋敷はポッター伯とセブルスの訪問のみならず、シリウ
スの父であるブラック侯爵が突然やって来て滞在することになったの
でこの数日というもの普段からは想像もできないほど賑やかな空気
に包まれていた。使用人たち、特に女たちはブラック侯爵が息子の
屋敷に来た事と、レディ・セブルスを関連づけて頻りに噂した。
ブラック侯爵はレディ・セブルスを息子の妻にと考えて、お忍びで
面会に来たのではないか?これまで侯爵は一度も息子の屋敷を訪
ねたことがなかったので、レディ・セブルスに会いに来たと考えた方
が納得できる。会うのならば宮廷で会えばいいのかもしれないが、
縁談相手となると慎重に、人目につかない形で会っておきのかも
しれないなどと皆勝手に推測しては話し合っていた。
シリウスは美男美女で名高いブラック一族の中でも一、二を争う
美男子だったので、下々の女の使用人に至るまで絶大な人気があ
り、その結婚相手に関しても関心が高いのだ。
ブラック侯爵が来てからというもの、食事は公開されるようになり、
ひどく内気といわれていたセブルスも皆と一緒に食卓につくよう
になった。それだけでも画期的な事だが、侯爵は小さなレディの
乗馬の稽古に付き合い、習字や読書を見守ってはポッター伯に
レディの教育について細々と指示しているという。
また、レギュラスが楽士を招いた時に音楽を楽しんでいる様子だっ
たと聞けば、すぐに楽士が呼ばれて食事や皆で集まっている時に
は常に控えめに音楽が奏でられるようになった。それだけでも
侯爵がセブルスのことを大切に考えていることがわかるというもの
だ。

「この傷は、私が若い頃に戦に出た時の痕だよ。騎乗している時
に切りかかられたのだ。シリウスが生まれるずっと前のことだ」

 セブルスは自分に背を向けている侯爵がちょうど自分が注目し
ていた自身の肩の傷について話し出したので、驚いてびくりと華奢
な身体を震わせた。侯爵は背中に目がついているのかと思った
のだ。実際、侯爵は背を向けていてもセブルスの動向がお見通し
らしい。侯爵は暖炉の前に置かれた椅子に腰掛けてリーマスに
腕の傷を消毒してもらっているところで、セブルスは好奇心にから
れてこっそり侯爵の背後に近づいて様子を見ているところだった。
 侯爵の負傷はごく一部の侯爵の使用人以外には伏せられてお
り、包帯の交換などは居間でくつろいでいる時にさりげなく人払
いをして行われた。今もブラック家の父子とジェームズとセブル
ス、リーマスとピーターの他にセブルスの乳母と侯爵の側近が
二人いるだけで、セブルスのマルチーズたちが我が物顔で部屋
中を駆け回っているという奇妙な団欒の風景が繰り広げられて
いた。マルチーズたちは犬らしく立場の上下関係を敏感に察知
し、侯爵に懐いていて傍に駆け寄っては尻尾を振り立てて愛想を
振りまいている。飼い主のセブルスは侯爵と会話らしい会話をする
までにはまだ至っていなかったが、侯爵の腕の怪我については
気にしていて、リーマスが侯爵の手当をする時にはいつもいつ
のまにか傍にいて様子を見ているのだった。リーマスから包帯を
取ったり、薬壷を持っていてくれないかと頼まれると、素早く傍に
やってきてリーマスを手伝った。
セブルスはリーマスの治療の様子に興味津々で目を見張り、耳を
そばだてていて、リーマスから用事を頼まれることを心待ちにして
いる節があった。今日もリーマスに新しい包帯を籠から取ってくれ
ないかと声をかけられると、小走りで近寄ってきて、包帯を取り出
し、リーマスが侯爵の腕に巻きやすいように少し広げて渡した。
リーマスはセブルスの気遣いに気づいて、目配せで感謝を伝える
と、セブルスも目を合わせてから元の位置に戻ろうとしたが、レギュ
ラスに自分の隣が空いていると手振りで誘われ、そちらに吸い込ま
れるように歩いていき、レギュラスに手を貸されてふわりとスカート
を広げて座った。しかし、黒い眸でジェームズと乳母の方をちらりと
見て存在を確認することは忘れないのだった。ジェームズはセブル
スを止めはしないものの、本心では病気や怪我と関わらせたくない
と思っているのがありありと顔に出ていたのだが、乳母はセブルス
の平常の内気さからは考えられない積極的な様子に、信仰心から
くる慈悲を見出して喜んで見守っていた。ピーターが慌ててセブル
スのためにクッションや飲み物の入ったゴブレットを持ってきて世
話をやいたが、セブルスがピーターにそのまま自分の近くに座る
ように手振りで合図したので、躊躇いつつも床に座り込んだ。セブ
ルスはマルチーズ達が侯爵に侍り、自分に寄りつかないので寂し
いらしかった。片づけを済ませたリーマスもやってきてセブルスの
隣に座ったので気に入っている人に囲まれたセブルスは心なしか
嬉しそうだった。

「父上が戦に出られたことがあったなんて知りませんでした」

シリウスは突然の父親の発言に驚いて、思わず弟のレギュラスと目
を合わせながら父に話しかけた。レギュラスの顔にも意外だと思って
いる表情が表れている。

「昔のことだ。まだ結婚する前だった。アルファードは、いや、
私の弟、お前達の叔父は、まだ子どもで父が連れて行かなかっ
たのでたいそう悔しがっていたものだ」

侯爵は物憂げに息子に答えた。亡き弟の名が口をついて出た
ことに自分で驚いているようにも、後悔しているようでもあった。

「叔父上のことはよく覚えていますよ。何度も遊んでもらった。
乗馬や釣りや橇遊びを教えてくれてとても楽しかった」

 シリウスの言葉にレギュラスも同意して肯いた。侯爵は一瞬驚
いたような表情を浮かべたが、平静にそうかと答えた。
シリウスとレギュラスの兄弟は、この数日父親であるブラック侯爵と
同じ屋敷で過ごしていることに戸惑っていた。二人は生まれてから
これほど父親と親しく接した記憶がなかった。兄弟はブラック家の
領地にある小さな城で育てられ、両親は宮廷にいたからだ。
それが、一日のほとんどの時間をともに過ごしているのだから奇妙
な気分だった。
父親が何者かに狙われて負傷した事は衝撃的だったが、一緒に
過ごしている今の状態こそ異常なことだと思われた。当の侯爵は
二人の息子と一緒にいても特に感動もない態度でいる。息子達
よりも他人のセブルスに関心があるように見えるくらいだ。

「馬はどうなったのですか?」

 突然の少女の澄んだ声に一瞬一同は息を呑んだ。セブルスが
自分から発言することはこれまでほとんどなく、いつも黙っている
か、ジェームズの耳元で何事か囁くだけだ。
以前、シリウスが戦場では馬の肉を湿布にすると話して、動物好
きのセブルスをひどく動揺させたことがあった。シリウスはそんな
話をした事自体忘れてしまっていたが、セブルスはずっと覚えて
気にしていたらしい。侯爵は珍しくジェームズの傍を離れて、レギ
ュラスとリーマスの間に埋もれるように座っている小柄なセブルス
に微笑みかけた。

「私の馬は、私とともに凱旋したよ、かわいい人。イングランドの
馬は脚が早くて強いのだよ」

 唐突なセブルスの問いかけに、侯爵は落ち着いて答えた。
セブルスが安心したようにこくりと肯くと、侯爵も口元に微笑を
浮かべた。

「レディは乗馬が日に日に上手になっているから、一人乗りの馬車
も御せるようになるかもしれないね。氷の祭典では犬橇で遊んで
いたと陛下からお聞きしたが?」

 セブルスは小首を傾げ、犬達が勝手に自分が乗った橇を曳いて
走っていたのだと答えた。極端に人見知りなセブルスが突然侯爵
と会話し始めたことに皆驚き、成り行きを見守った。侯爵はセブル
スの生真面目な表情を浮かべている小さな顔を見つめて愉快そう
に微笑った。

「揺れで酔ったり、怖くはなかったかな?」

セブルスがこくりと肯くと、それはたいしたものだと褒めた。
セブルスがスケートをしてみたかったと言い出したので、ジェームズ
を始め、ブラック兄弟もリーマスやピーターまでも驚いた。セブルス
はそのような素振りを見せたことはなかったのだ。侯爵はセブルス
と同じように真面目な表情で肯き、

「それでは、冬までにあなたの小さな足にぴったりの鯨の骨ででき
たブレードがついたスケート靴を作ってあげよう。少し練習すれば
すぐに滑れるようになる。テムズ川を行けるところまで滑ってみると
いい」

とセブルスに提案した。セブルスが返事をする間もなく、ジェームズ
が慌てふためき、

「危険すぎます!転んで首の骨が折れたら!一度転んで顔に怪我
をしてしまったんです!」

と大声を出した。セブルスがジェームズの顔を見上げ、侯爵の顔を
見上げ、困ったように眉を顰めたので、リーマスが横からセブルスの
顔をのぞき込んで人差し指で優しく眉間の縦皺を撫でた。リーマスの
優しい笑顔を見ても、セブルスは心配そうな表情は消えなかった。

「セブルスの両脇を誰かスケートが達者な人間が支えて滑ったら
いいんじゃないか?」

 侯爵とジェームズの意見を中和しようと考えたらしいシリウスの
提案に、セブルスは小首を傾げて考え込んでいる様子だったが、
どうやらあまり気に入らないらしく眉を顰めている。

「このかわいい人は自分の足で自由に動きたいのだ」

侯爵の灰色の眸がそうだろう?という風にセブルスを見つめると、
セブルスの黒い眸もまた侯爵を見つめて、わが意を得たりという風
にこくりと肯いて見せた。


(2017.6.19)

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