鹿と小鳥 第30話

「さぁ、これを飲んで」

 優しいが毅然とした声に促されて、シリウスはリーマスに手渡
されたゴブレットから漂う癖のある匂いに鼻を摘みながらも大人
しく唇をつけた。今、浸かっている木製のバスタブの湯からも同
じ臭気が立ち上っているので鼻は慣れてしまっているというのに
子どものような態度をとるシリウスにリーマスは困ったように微
笑みながらも、木桶で薬草が漬けられて褐色になった湯をシリ
ウスの肩にかけた。寝込んでいたために少し痩せてしまったが、
均整の取れた背中を薬湯が流れ落ちた。
 リーマスはシリウスの屋敷の付近の村で疫病患者が出た時
に、すぐに宮廷のシリウスにできるだけ遠くに避難するように、
絶対に屋敷に戻ってきてはいけないと手紙を送ってから連絡を
絶った。疫病は瞬く間に蔓延し、屋敷からも病に倒れる者が出
ると、他の使用人たちが我先にと逃亡し始めた。リーマスは
ピーターを助手にして治療にあたったが、薬が足りない上に、
病の進行が早いので死亡する者も少なくなかった。ダンブル
ドアに薬と応援を頼むしかないとピーターを使いに出そうとした
が、ピーターはリーマスが一人になると反対した。確かに
病人は日に日に増えていくのに医者はリーマスしかいない。
ピーターは助手としての働きの他に、逃げた使用人の代わりに
厨房の仕事を手伝ったりと雑務を引き受けてよく働いていた。
自分かピーターのどちらかが倒れてしまったらお終いだ。そう
感じたリーマスが、二人で何とかしてこの難局を乗り切ること
ができればと祈るような気持ちで毎日を送っていた時に、病に
倒れたシリウスが屋敷に送り返されてきたのだ。屋敷に運び
込まれてきた厚い毛皮の毛布で厳重に巻かれたシリウスの
姿を見て、リーマスは一瞬死体と勘違いしてその場に崩れ落
ちそうになった。手紙で止めたがシリウスは戻ってくるのでは
ないかとリーマスは心配していたのだが、シリウス自身が病
だと話は別だ。リーマスも知っているブラック家の従者がジェ
ームズからの手紙と薬草の束がぎっしり詰まった木箱を恐る
恐る差し出してきた。手紙を貪るように読み始めたリーマスか
ら、従者達はそろそろと遠ざかっていった。おそらく辛い役目を
終えて、何処かに逃げるつもりなのだろう。手紙によると、ジェ
ームズの居所で倒れていたところを発見されたシリウスは熱で
朦朧とした意識の中、屋敷に戻ると言って聞かなかったらしい。
病人を動かしてよいものかジェームズは相当危ぶんだらしい
が、シリウスの熱意に絆されてブラック家の従者にシリウスを
託したのだった。もしかするとジェームズは万一の場合を考え、
悔いの残らないようにと考えたのかもしれない。屋敷に運び
込まれたシリウスは主の寝室に寝かされ、そこがそのまま
病室になった。大半の使用人は逃げてしまっており、残って
いる者も感染を恐れて召使い専用の部屋に閉じこもっていた
のでリーマスとピーターで看病することになったが、既に患者
を大勢抱えていた上に、井戸から水を汲んだり、湯を沸かし
たりといった事まで自分たちでしなければいけないので大変
だった。ジェームズは手紙でこの病に効く薬草を従者に持た
せるので、それを漬けた風呂にシリウスを入れるようにと指示
してきていた。セブルスがダンブルドアに手紙で教えてもらっ
たということで、ポッター家では既に薬草を集めていたらしい。

「身体中が変な匂いになった。もういいだろう?」

 文句を言うシリウスの肩を押さえてリーマスがなおも背中
に湯をかけていると、礼儀正しく扉がノックされてから一呼
吸おいて、扉が開いた。

「追加の湯を持ってきました」

 シャツの袖を捲ったレギュラスが湯が入った木桶を持って
入ってきた。一つの桶を部屋の中に置いてから、廊下に置い
てあったもう一つの桶を持って入った。

「すまないね、レギュラス。君にこんな事をさせてしまって」

 リーマスがレギュラスに礼を言うと、レギュラスはシリウ
スとよく似た端正な顔をわずかに崩して微笑みながら
木製のバスタブに湯を足した。

「いいえ、僕にできることはこれくらいですから。リーマス、あな
たこそ少し休んでください。わがままな病人につきあって、あな
たが倒れてしまったら大変だ。湯を足して温度を上げて、肩や
背中にかけたらいいのですよね。ぼくがやりますよ」

 そう言うとレギュラスはリーマスの手から手桶を受け取って
兄の肩に熱い湯をかけた。

「熱っ!レギュラス、熱いぞ!」

 我慢してくださいと涼しい声で告げるとレギュラスは兄の肩に
遠慮なく熱い湯をざばざばとかけ続けた。この数日でリーマス
はピーターよりもレギュラスのほうが看護という点では有能
だということに気づいていた。働くなど生まれて初めての経
験に違いないのに、レギュラスは冷静沈着に勤めを果たし
ているのだ。

「文句を言う元気があるのですから、もう治りかけているので
しょう。まったく、あの小さなレディのおかげですよ。兄さんの
異常に気づいて手当してくれたばかりか、薬草まで分けてく
ださった」

「チビじゃなくてジェームズのおかげだろ」

 シリウスがやつれてもなお美しい顔を顰めて訂正を入れ
ると、レギュラスはシリウスとよく似た美しい顔を横に振った。

「いいえ、ジェームズが居所に戻った時には、既にあの方が
兄さんの手当をしてくださっていたそうですよ。薬草もこの
病の流行の兆しが見えるとすぐにダンブルドアに教えを請
われて集めていらしたそうです。まだお小さいというのに
聡明な方です。初めてお会いした時から、不思議なところ
おありでしたが」

 湯をかける手を止めて、レギュラスはセブルスを褒め称
えた。リーマスもレギュラスに同意して頷いている。

「本当にセブルスが君の手当をしなかったら危ないところだっ
たと思うよ。ここに運ばれて来た時、君は高熱に浮かされて
譫言を言うほどだったし。魔女がどうとか、呪いがどうとか。
心ない人が耳にしたら、教会に密告されかねない怪しい事
を言っていたんだよ」

 シリウスは憮然として反論しようとしたが、レギュラスとリー
マスが結託している現在、セブルスの悪口を言うことは得策で
はないと悟って仕方なく黙った。 シリウスがポッター家の
居所で病に倒れた時、誰も出迎えなかったのは、すでに
あの居室から病人が二人出ていたのだ。セブルスの乳母を
付き添わせて屋敷に送り、ジェームズ達も急遽避難すると
ころだったらしい。ジェームズが急ぎ国王のところに暇乞い
の挨拶に伺候していたので、セブルスは一人で留守番を
していたのだ。そして、シリウスが悪魔憑きと勘違いしたセブ
ルスは適切にシリウスの手当てをしてくれていた。部屋に戻
ってきたジェームズは、長椅子で朦朧としているシリウスと傍
に付き添うセブルスを発見して仰天した。セブルスは、毛皮の
ついた毛布でシリウスをしっかりと包みこみ、これも奥の寝室
から引き摺ってきたらしいリネンのシーツで、汗と薬草の汁で
濡れたシリウスの胸と顔を落ち着き払って丁寧に拭き
取っていたという。

「暖かくして汗をかいたから、熱が下がって助かったんだ。ここ
にくる前に適切な処置がされていたから重症にはならずにすん
だんだね」

 リーマスはセブルスの的確な処置に感心していた。セブルス
は先に出た病人にはジェームズがセブルスを近づけなかった
ので、誰もいないのを幸いとダンブルドアからあらかじめ手当の
方法や薬草について教えてもらっていた事を自分ができる範囲
で実行したらしい。しかし、シリウスを恐怖に陥らせたセブルス
の唾液まみれの薬草湿布や、無理やり喉へ流し込まれた不気
味な薬湯がシリウスの命を救ったのだ。

「あの薬草を胸にはったから、君の呼吸が楽になったんだよ。
薬湯で汗をかきつつ水分も補給できたし。高熱のまま
呼吸困難に陥っていたら、本当に危なかった」

 セブルスに命を救われたという事実から目を背けたいシリウ
スはレギュラスに話しかけた。

「それはそうと、おまえはここにいていいのか。親のところに
行った方がいいんじゃないのか。俺の病気が感染したら大変
な事になる。俺が死んだらお前がブラック家を継ぐんだし」

「父上も母上も、自分に感染させる可能性がなくなるまでは
僕に近づいてほしくないと思いますよ。もちろん兄さんにもで
すが。しばらくはここでリーマスの手伝いをさせてもらいますよ」

 それもそうだなと頷くシリウスの傍でリーマスは複雑な思い
を抱いていた。現在にいたるまでブラック公爵夫妻からは見舞
いはおろか、手紙一本届いていないのだ。人手不足でリーマス
自ら井戸の水を汲んでいた時、レギュラスが突然目の前に現れ
た。リーマスはシリウスの幻影を見たのかと動揺したが、よく
見るとシリウスの弟レギュラスだったのだ。リーマスはレギュ
ラスに急いでこの屋敷から立ち去るように話した。感染したら
大事だからだ。ブラック侯爵家の直系男子はシリウスとレギュラ
スしかいないのだ。しかし、レギュラスはシリウスの容態を尋
ね、使用人たちが逃亡している有様であることは既に察してい
て、自分が井戸の水を汲んで運ぶので、シリウスを看てやって
くれと頼んできた。そして、上着を脱いでシャツの袖を捲り上げ
素早く仕事に取りかかった。貴公子にそのような力仕事ができ
るのかとリーマスは危ぶんだが、レギュラスは黙々と仕事をこ
なした。レギュラスを見つけたピーターが飛んできて釣瓶を奪い
かけたが、レギュラスが自分にはこんな事しかできない、お前
はリーマスを助けるようにといつもと変わらない穏やかな声で
諭した。おかげでリーマスとピーターは病人の世話に専念でき
たし、レギュラスが労働する姿に、屋敷に残っていたものの病
を恐れて引きこもっていた使用人たちが驚愕のあまり正気に
戻ったのか仕事をするようになったので、屋敷内がまわるよう
になったのだった。

「レギュラス、君にここにくるなと手紙で知らせるべきだった。
慌てていたものだから申し訳ない」

 リーマスが自分の不手際を詫びた。もともとこの屋敷で兄弟
は会う予定になっていたのだ。だから、レギュラスはフランスか
ら帰ってきてしまったのだろう。しかし、レギュラスはさらりと、

「いいえ、僕は知っていました」

と、否定した。シリウスが、

「母上か?」

と、訊ねると、レギュラスは淡々とした口調で答えた。

「いいえ。母上はフィレンツェの父上のところに行くようにと
早馬を寄越しました。家族でそこで過ごしましょうと」

 話が見えなくてリーマスは首を傾げたが、シリウスは片眉を
あげた。レギュラスはいつもとかわらない穏やかな表情のまま
言葉を続けた。

「何かおかしいなとは思いましたが、旅の支度をして出発しよう
とした時です。また早馬が手紙を持ってきたんです」

「また母上からか?」

「いいえ。あの小さな可愛い方からでした。時々、手紙のやり
とりをしているんですよ。あの方はこの頃では随分長い文章
を書けるようになって、筆跡も美しくなられて…。でも、あの時
は急いで書かれたのか珍しくスペルに間違いがありました」

 レギュラスは優しく微笑んだ。セブルスの筆跡を思い出し
ているようだった。

「あの方が僕に教えてくれたんです。兄さんが病に倒れたこと
を。病状と居場所も知らせてくれました。それで僕は船でイン
グランドに戻ってきたんです。兄が病気なら、弟は見舞いに
行くものでしょう?」

(2012.11.29)

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