鹿と小鳥 第1話

  「おいで」

 それが、彼が私に声をかけた最初の言葉だった。
そして彼は、私を自分のマントの中に入れて馬に乗り出発した。
私は、自分がこれまでの生活と決別したことも、新しい世界に向かって
走っていることも知らずにいた。彼のあたたかな胸に密着しその心臓の
鼓動をずっと聞いているうちに、彼の心臓の音と自分のそれが一つにな
って聞こえたのを今でもよく憶えている。




「旦那、一休みなさいませんか。馬もここいらで一息入れさせませんと」

 目に卑しさが滲み出た赤ら顔の女が馬上の男に声をかけた。
この村落には旅籠も幾軒かあったが、女は家で旅人相手に自家製の
エールやパイなどの簡単な食事を出して商売をしているらしかった。交渉
次第では泊めたりもするのかもしれない。
貴族階級の人間なのだろう、埃よけに頭にかぶったフードと絹のスカーフ
で顔の殆どを隠した馬上の男は、女に肯いて同意すると地面に降り立っ
た。馬を撫でて優しく労わりの言葉をかける。

「御馬はあそこで休ませておきましょう」

節くれ立った荒れた手に手綱を預けると、女は馬を家の傍にある水飲み
場まで引いていった。

 バシャッと不意に水音がした。音がした方に目をやると、大きな水溜り
の真ん中に何か小さなものが蹲っていた。赤ら顔の女に似た顔立ちの
子ども達が三人輪になって、木桶の水を代わる代わるぶちまけていた。

「おまえは臭いんだよ。きれいにしてやってるんだからな。礼を言え!」

よく見てみると水責めにされているのは、小さな子どもだった。晩秋の日
の午後も遅くという時刻は、野外で行水をするに適しているとはいえな
い。ずぶ濡れの子どもは全身を震わせながら咳こんでいた。水を吸って
濡れた土に這い蹲っている様子が哀れだった。

「あの子は?」

「うちの亭主の前の女房の子で、ただの穀潰しなんですよ。知恵が足り
ないから手伝いもできやしない。母親が自分と一緒にあの世に連れてい
ってやりゃよかったんだ」

「あの子を私に引き取らせてくれないか」

女は突然の慈善的申し出に対する軽蔑の嘲笑を隠さなかった。
しかし、金貨がずっしりと詰まった袋を渡されると今度は驚愕した表情を
浮かべ、素早く中身を改めるとすぐに服の中に金袋をしまい込み、自分の
娘に指図した。

「メアリー、おまえの服をあいつに着せてやりな」

年嵩の少女が不満そうな声を上げたが、「おまえの一張羅より立派なドレ
スを何枚でも作ってやるよ」と言われると、水浸しの子どもを引き摺りなが
ら、家の中に駆け込んで行った。しばらくしてから再び服を着替えさせられ
た子供が連れてこられた。荷物は何もなくよく見ると首に何かかけている。
かけっぱなしでいたらしく垢にまみれ薄汚れていてよくわからないがロザ
リオだろうか。それがこの子の唯一の財産らしかった。メアリーの服もとて
も清潔といえるものではなかったが、濡れたままでいるよりはましだろう。
ロンドンまで馬で戻らなくてはならないのだ。

「馬の鞍の後ろに縄で括りつけますか?」

「いや、結構。さぁ、おいで」

哀れな子どもを腕に抱くとさっと馬に飛び乗った。マントの中に子どもを
入れると

「私にしっかりと掴まっているんだよ」

と声をかけた。念のために子どもの顔が自分の心臓のあたりにあたるよ
うに腰と腰を布で結んでからマントの上からぽんぽんと安心させるように
軽く叩いた。子どもは何の反応も示さなかった。その様子を眺めていた女
に、

「この子の名前は?」

と尋ねてみると、

「セブルスってんですよ。変わり者だった母親がつけたらしいですよ。
女なのに男の名前を」

 馬上の男は軽く頷くと、鐙で合図して馬を出発させた。
馬は土煙を上げて駆け、あっという間に走り去った。
 女は思った。今日は、金貨の入った袋は手に入るし、厄介払いはでき
るし、何といい日なのだろう。
明日は酒屋のつけを払って、麦酒と葡萄酒の樽を買ってこよう。子ども達
に新しい服を作ってやれる。あのろくでなしの亭主は新しい女のところに
入り浸りだが知ったことか。そうだ、あたしもまだ若いのだし、あんな男は
お払い箱にしてもいいかもしれない。暖炉に火を入れ、何日も食べ続け
ている残りもののごった煮の鍋を暖めた。売れ残りのパイとパンをテーブ
ルに並べると、

「今日は好きなだけ食べな。一人食い扶持が減ったことだし」

 子ども達は歓声を上げ、食卓の上の食べ物を餓鬼のように泥だらけの
素手で貪り食べた。その様子を、女は穀物をけちったために妙に酸っぱく
て薄い自家製のエールをジョッキで飲みながら充血し濁った目で見つめ
ていた。

(2011.6.20)

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