薬屋

 少し目を離した隙に、息子が駆け出した。短い足をしている癖に
素早い。小走りで急いで追いついたが、膝ががくがくになった。
やわらかい栗色の髪をぐしゃぐしゃにした息子が、私を見上げてに
っと笑った。また、走り出す気だ。そうはさせないぞとよく太った
小さな手を握り締めた。小さな手は何とか抜け出そうと暫く抵抗
していたが、やがて観念したのか、時々ぶらさがったり、飛び跳
ねたりしながらも一緒に歩いた。子どもはもちろんとても可愛いが、
疲れる。たまには静かにしてくれないかと思うが、本当に静かに、
というかぐったりとなってしまった時には焦った。何か静かだなと
思ったら、高熱を出していたのだ。ここは田舎で、市内の病院ま
で車で一時間はかかるし、運が悪いことに夫は出張中だった。
かなり焦っていて自分で運転できるような心理状態ではなかった
ので電話でタクシーを呼ぼうとした時に、ふと近所の薬屋に行け
ば、すぐに薬をもらえるのではないかと閃いた。赤い顔をしてぐっ
たりしている息子を抱えて、今、二人で歩いている道を全力疾走
した。薬屋といっても、今時のドラッグストアではなく、民間療法
のハーブが専門のかなり寂れた雰囲気の店で、中年の薬剤師
が出入りしているところを何度か見かけたことがあった。その薬剤
師は神職についている者のように黒づくめの上にひどく無愛想に
見えたし、滅多に店に客が入っていることもなかったので買い物
したことはなかったのだが、背に腹はかえられない。息子を抱え
たまま、店の扉をガンガン叩くと、ギィと軋んだ音をたてて扉が
開かれた。

「何のご用ですかな。今日はもう閉店の時間なのだが」

 長い黒髪に血色の悪い顔をした薬剤師はいかにも迷惑そうだっ
た。私が息子の状態をまくしたてると、黒い眸が鋭く息子を一瞥
して、中に入るように促された。店は壁一面が薬棚になっていて
陶器の薬壷が並べられており、分銅の秤や大きな乳鉢といった
道具類も骨董じみていた。奥の部屋の暖炉の傍の安楽椅子に
これも骨董品のような白髪の老人が座ってお茶を飲んでいた。
その部屋の寝椅子に息子を寝かすように言われたので、そっと
息子を置くと老人が心配そうに息子を見つめた。中年の薬剤師
は、てきぱきと息子の脈を取ったり、皮膚を丹念に診てから風邪
でしょうなと断言した。すぐに熱冷ましの薬を作って飲ませてくれ
たが、病気で弱っていたとはいえ、あのやんちゃな子に問答無用
で薬を飲ませた薬剤師の手腕には驚かされた。元気になってから
息子が話していたが、すごく苦い薬だったらしい。薬剤師は三日
分の薬を用意してくれ、これで治りますからときっぱり宣言した。
はたして三日後に息子は全快した。それから、私の頭痛薬や
息子の傷薬などをちょくちょく買いに行くようになったのだ。本当
によく効くし、ハーブは副作用の心配がほとんどないから安心
だ。それにあの無愛想な薬剤師は凄腕なのだ。息子は、奥で座
っている老人にすっかり懐いていて、いつでも勝手に傍に寄っ
ていって遊んでもらっている。かなり高齢なのだと思うが、一体
幾つくらいなのだろう。絵本に出てくる長老じみた風貌をしてい
るが、とても綺麗な明るい空色の眸をしている。老人と薬剤師
は全く似ていないが親子なのだろうか。二人ともこの国の出身
でないことは言葉の訛りでわかるが、詳しい話を聞き出せる雰
囲気はない。何処か得体の知れない人たちだが、私は不思議
と警戒しなかった。薬局の匂いが母方の曾祖母の家の匂いと
同じだったからかもしれない。曾祖母もハーブを自分で育てて、
薬やポプリを作る名人だった。私が結婚する前に亡くなってし
まったが、長寿で魔女みたいなところがある人だった。魔女と
いうのはとてもチャーミングな人だったという意味だ。

「今日は何がご入り用ですかな」

 息子は私と繋いでいた手をふりほどくと、さっさと奥の部屋の
老人のところに走っていった。老人はいつものように安楽椅子
で薬剤師特製のお茶を飲んでいたが、息子を歓迎してくれた。
私は、頭痛薬と切り傷用の塗り薬を注文して、調合してもらう
間、薬局の古ぼけた椅子に座ってぼんやりと休んでいた。この
薄暗い部屋はいつ来ても落ち着く。中年の薬剤師は、陶器の
薬壷をいくつか下ろして、秤でハーブを量ったり、乳鉢で擦った
り、床に並んでいるオイルの壷を取って上から垂らしたりしてい
たが、その動作には一切無駄がなかった。出来上がった薬の
代金を支払ってから、息子を呼ぶ。

「ファン、いらっしゃい!帰るわよ」

 息子と一緒に老人も奥から出てきた。またおいでと息子に話
しかけている。薬剤師は老人を気遣わしげに見つめていた。
高齢なので何かと心配なのだろう。

「ファン、さよならを言いなさい」

 薬と遊んでもらった礼を言ってから、息子に別れの挨拶を促し
た。こういうことは大切だ。

「バイバイ、またね!おにいちゃん!」

 中年と老人に向かって、お兄ちゃんはないだろう。訂正する間
もなく息子は手を振りながら走って出ていってしまった。無表情
の中年の薬剤師と慈愛の微笑を浮かべている老人に礼をして、
慌てて後を追いかけた。


 薬局の二階にある自宅で、薬剤師は夕食の準備をしていた。
シチューにパン、サラダぐらいのものだが、仕事を終えた後の
時間はやはり気分が寛ぐ。

「ふぅ、さっぱりした!」

 癖の強い黒髪をタオルで拭きながら、若い男がバスルーム
から出てきた。エメラルドグリーンの眸は眼鏡越しにでも明るく
輝いている。

「ちょうど、料理ができるところだ」

 若い男は、手早くテーブルの上をセッティングした。すぐに
夕食が始まったが、

「なんでバレちゃったんだろう、あの子に」

と、若い男がエメラルドグリーンの眸で薬剤師の黒い眸を見
つめた。暗い薬局にいる昼間より、薬剤師は若く見える。
中年というにはまだ早すぎるようだ。

「ポリジュース薬、ちゃんと飲んでたのにな」

「老人の仕草が板に付いていないからだ、といいたいところ
だが、おそらくあの子は…」

と、言いかけた薬剤師に、

「僕たちと同じなの?でもお母さんはマグルだったよね?」

 嬉しそうに弾んだ声が、なおも問いかけた。

「あぁ、しかし、先祖に魔法使いか魔女がいる家系なのだろう」

「このあたりに魔法学校はあるのかな」

「このあたりはかつて魔女狩りが盛んな土地柄だったから
魔法学校はない。だが、ボーバトンかホグワーツから入学
案内がいずれ届くはずだ」

 魔法使いと魔女が迫害されていた土地柄だから、この土地
を選んだのだ。知り合いに会う確率はできるだけ低い方がいい。

「そろそろ、引っ越し時かな…」

 残念そうな声に、そうした方がいいだろうと淡々とした声が
応じた。

「おまえはさっさと薬学を覚えるか、英国に戻るかしろ。ダン
ブルドアの姿をして半日傍にいられては落ち着かない」

「ダンブルドアでも、アルバスじゃなくてアバーフォースの方
だよ。餞別にって顎髭をごっそりくれたんだ」

 減らず口をたたきおってとぶつぶつ呟く、薬剤師、セブルス・
スネイプを、ハリー・ポッターは熱っぽい瞳で見つめた。告白
したのは何年前になるのか。まだ成人前の話だ。セブルスに
全てが片づくまで待ってくれと言われた。
 今の生活は、ポリジュース薬で老人に化けるまでもなく、ある
意味老後のようなものだ。僕の前半生は忙しすぎた。セブルス
も似たようなものだ。現在の逃避行は、二人の生活を続けるた
めに必要だ。いつか、どこかに落ち着く日がくるかもしれないが、
その時は世間がハリー・ポッターという人物のことを忘れてしま
った頃になる筈だ。それまで僕は喜んで逃げ続けるつもりでいる。

「荷物はスーツケース一つ以上に増やしてないから、いつでも
移動できるよ」

 裏庭のハーブ園も整理しなければいけないし、次の土地を
下調べしなければいけないからもう少し待てとセブルスが言
うので、もうしばらくはここで老人でいることにする。あの子の
親があの子が魔法使いだと知るまでに移動すればいいのだ。
それまでにファンとまた遊びたいな。あの子は僕の後輩にな
るかもしれないしね。近所に住んでいた爺さんとホグワーツの
元校長がそっくりだと知ったら驚くかな。僕はあえて半月眼鏡
はかけていないけどね。ダンブルドアは未だに魔法界で大人
気なのだ。ハリー・ポッターであることを隠して生きている割に、
魔法使いに対しての親近感は失せないらしいハリー・ポッター
はそんなことを考えていた。

(2012.9.11)
思いついてガーと書き上げました。駆け落ち物?
たぶん二人はスペインあたりにいるんだと思います。
次は寒いところに行くのかな。この逃避行は、教授
の薬草採取の旅でもあります(笑)
 
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