壜の中

 
 ゴドリックの谷にあるポッター家の庭では、幼いハリー、父親
ジェームズとその親友であるシリウスが箒遊びに興じていた。
言うまでもなくハリーの箒はおもちゃだが、シリウスが改造したの
で本物ほどではないがかなり高くまで飛べるし、スピードも出る。
空中を父とシリウスと併走しておもちゃの箒を操るハリーは、風邪
を引かないようにもこもこに着膨れ、手にはミトンをはめている。
風を受けて頬は薔薇色に紅潮し、まるいエメラルドグリーンの瞳
は楽しくて仕方ない様子で明るく輝いていた。ハリーがこの時の
感覚を思い出せば、いついかなる場合でも強力なパトローナスを
出すことができるに違いない。

「ハリーの箒の扱いはたいしたものだな。バランス感覚がいいんだ」 

 地上に降り立ったところでシリウスが誇らしそうな表情でジェーム
ズに話しかけた。親である自分よりも親馬鹿な様子の親友にジェー
ムズも笑いながら、

「まったくハリーは怖いものしらずだからね。ブランコから飛んで空中
で回転したりするからひやひやするよ」

 初めてハリーがブランコから空中回転をした時には、その場にいた
ジェームズはてっきり事故だと勘違いして肝を潰したものだった。
無事に着地したハリーに駆け寄ると、ふと手を離してくるっとまわっ
てみたくなったのでやってみたらできたと笑うので怒る気が削がれ
た。リリーに話すと、自分も小さな頃に同じことをしたとハリーと同じ
瞳で笑ったので、ハリーはリリーに似たのかもしれないとジェーム
ズは内心思ったのだった。子供というものは不思議な生き物だ。
父親と母親のどちらにも似ている。しかも、ハリーの場合、ゴッドフ
ァーザーのシリウスの影響も受けているのだ。ジェームズはそんな
ことを思い出しながら、おもちゃの箒を乗り捨て、何が面白いのか
さっぱりわからないが植え込みをむやみにミトンをはめた手でがさ
がさ引っかき回して遊びはじめたハリーを見つめた。シリウスとハリ
ーにそろそろ家に戻って温かい飲み物を飲もうかとジェームズが声
をかけようとした時だった。ハリーのエメラルドグリーンのまるい目が
何かを見つけてきらりと光った次の瞬間、飛び跳ねた小さな体と一
緒にミトンが宙を舞っていた。ハリーの小さな手が確かに何かを掴
んで地面に倒れ込んだ。驚いたシリウスが地面に倒れたハリーに
駆け寄ったが、ハリーはむくりと自分で起きあがり、ジェームズに
向かって、

「パパ、ぼくのびんとって!いそいで!」

と、子供特有の高い声で叫んだ。可愛いらしい顔や服に砂がつい
ているがまるで気にしていない。

「えー、ハリーの部屋まで取りに戻るのかい?」

 わざとジェームズが面倒そうな声を出すと、

「パパのバカ!ひきよせのじゅもん!まほうつかいでしょ!いそい
で!」

 ハリーがじれったそうに短い足で地団太を踏みながら、ジェームズ
に迫った。ハリーの剣幕に圧されたジェームズが杖を降ると、ハリー
の部屋の窓から、ジャムの空き壜らしきものが一直線に飛んできた。

「ほら、きたよ」

 ジェームズが待ちかまえている息子に瓶をかざして見せた。ジャム
の空き壜にオイルが入っていて、何か黒いものが沈んでいる。

「ふたあけて」

 ジェームズを見上げながら、ハリーがまたもや指図する。ジェーム
ズがどこか恐々とした様子で蓋を開けてやると、ハリーがむっちりと
した小さな手で掴んでいたものを瓶の中にポイッと入れた。その時に
はシリウスにもそれが人類の敵と思われている黒い昆虫であるとわ
かっていた。笑窪が浮かんでいる小さな拳から触覚や足がはみ出
していたのだ。オイルの海に投げこまれた哀れな黒い昆虫は瞬時に
息の根を止められ、断末魔の羽ばたきも許されずゆっくりと先に
同じ運命をたどった仲間の上に沈んでいった。やがてその上に新
たな犠牲者が落ちてくるまでは仲間の一番上で黒光りした姿で
鎮座しているのだ。ハリーが用が済んだ壜を渡すと、ジェームズ
が素早くぎゅうぎゅうと蓋を閉めてから、息子に返してやる。ハリ
ーは哀れなゴキブリたちが積み重なってオイルに沈んでいる壜を
じっくりながめてにっこり笑った。ゴキブリは夏場にはよく取れたの
だが、寒くなってからはめっきり姿を見かけなくなっていたのだ。
今日はラッキーだった。

「ハリー、なんでそんなことしてるんだ?」

 ハリーを生まれたときから溺愛しているゴッドファーザーが、それ
でも困惑を隠せずに尋ねると、ハリーは無邪気に答えた。

「わがはいにあげるの!おくすりのざいりょうになるんだよ」

 ハリーはセブルスがホグワーツの魔法薬学教師であることに多大
な関心を寄せており、両親や本人から仕事内容についてよく説明し
てもらいたがり、自分も魔法薬というものに興味があるとセブルスに
アピールしていた。両親は勉強はホグワーツに入学してからでいい
という方針でセブルスも同じ意見だったのだが、ハリーと同い年の
ドラコ・マルフォイが既にホグワーツで学ぶ科目を家庭教師をつけ
て学んでいると知ってからは、少しは魔法の学問について学んで
おくことも悪くないのではないかと言って、ハリーが興味を示したこ
とについてわかりやすく教えてくれたり、ハリーに魔法薬を作る手
伝いをさせてくれたこともある。セブルスと親しく接する機会を絶対
に逃さないハリーは張り切って手伝い、その時の楽しかった思い
出を数ヶ月にわたって両親に繰り返し語り続けているのだった。
ある時、庭で遊んでいたハリーが両親がお茶を飲んでいるところ
に駆け込んできた。そして、ハリーが握りしめていた手を広げて見
せるとジェームズが悲鳴を上げた。艶々と黒光りしたゴキブリが
ぽっちゃりとした手のひらの上に載っていたのだ。

「ハリー、何でそんなものとってきたんだよ!汚いだろ!早く捨
ててきなさい!」

 ジェームズは狼狽してハリーにあわあわと言いつけたが、ハリー
は、

「あのね、これとおなじのがわがはいのけんきゅうしつにあったの。
びんにはいってたんだけど」

と、説明した。災難に遭って硬直状態だったゴキブリが自由になった
ことを察知して身体を震わせているのを見たジェームズが再び悲鳴
を上げたのと、ゴキブリが恐ろしい羽音とともに飛翔したのがほぼ
同時だった。

「あっ、にげちゃった。つかまえなきゃ!」

 羽音をたてて部屋を飛び始めた黒い物体を、急いでつかまえようと
短い腕をあげて追いかけ始めたハリーに、

「ハリー、どうするの?それ」

 動揺しているジェームズと対照的にリリーが落ち着き払って尋ねた。

「わがはいにあげるの!」

 リリーがさっと杖を降ると空中から空き壜が現れ、次の瞬間には
部屋を飛んでいたゴキブリがその中に吸いこまれると蓋がきゅっと
閉められた。

「これでいいわね。でも薬の材料用だともっとたくさんいるんじゃない
かしらね」

 リリーからゴキブリが入ったガラスの瓶を渡してもらったハリーが、

「えー、そうなの…」

と、がっかりした声をあげると、動揺が鎮まらないジェームズがセブ
ルスはゴキブリの壜詰めなど買って持っているに違いないと言って
ハリーに諦めさせようとしたが、リリーがセブルスは地道にゴキブリ
を収集していると反論した。

「セブはまめな人なのよ。でもホグワーツはあんまりゴキブリがい
ないんですって。ハウスエルフたちが有能すぎるのも考えものよ
ね。スピナーズエンドの家に手製の罠を仕掛けてるって話してた
わ。市販のは餌に毒が入ってるから使えないんですって」

 そう聞いて、ハリーは即座にもっとたくさんゴキブリを集めてセブ
ルスに贈る決意を固めた。リリーがゴキブリが劣化しないように
油でつけておくと良いといって、壜に料理用のオイルを入れてくれ
たので、ハリーは捕まえたゴキブリを次々と中に貯め始めた。
ゴキブリは食べ物があるところに現れるそうだが、家の中でゴキ
ブリを見たことはない。リリー曰く、ペチュニアからの厳命でキッチ
ンは特に清潔に保つことにしているそうだ。姉妹の母が綺麗好き
な人だったので、母亡き後もその遺志をついだとばかりにペチュニ
アがことあるごとにリリーに警告してくるのだ。そういうわけで、ハリ
ーは庭にいる野良ゴキブリを地道に捕まえてはこつこつと貯めて
いるのだった。しかし、瓶の上までゴキブリで一杯になったらセブ
ルスに贈るのだと思うと、一匹捕まえるごとにハリーの胸は期待に
膨らむのだった。
 新たに犠牲となったゴキブリを得て、嬉しそうに壜を揺らしている
ハリーの横で漸く気を取り直したシリウスが、

「さっきの、ハリーがゴキブリを捕まえた時の素早さは凄かったな。
ハリーはシーカーに向いてるぞ。動態視力がいいんだ、きっと」

と、ジェームズに話しかけると、ジェームズは溜息混じりに笑った。

「君やセブルスって優しいよね。ありがたいよ」

「俺はともかく、セブルスの何処が優しいんだよ」

 セブルスと同列に語られたのが不満なのかシリウスは不満そう
な声を出した。

「きみもセブルスも、いつでもいやな顔をせずにハリーの相手を
してくれるじゃないか。親でも時々疲れるのにさ。二人とも忍耐強
いよ。特にセブルスは意外だったな」

 あんなに可愛い男の子の父親なのに何を贅沢なとシリウスが
ジェームズを冗談まじりに非難すると、まったくだとジェームズが
応じたので二人で肩を組み合って笑い転げた。ハリーが振り返っ
て、ジェームズとシリウスにあきれた視線を寄越したが、ハッとし
た表情になってゴキブリが入った瓶を抱えて走ってきた。

「これ、わがはいにはひみつにしておいてね!おどろかせたい
から!」

 黒光りしているゴキブリが積み重なってオイルに漬かっている壜を
ずいっと差し出してハリーが真剣な顔で頼んできた。父親譲りの黒い
癖っ毛に、母と同じグリーンアイのまるい顔は愛らしいが、手に持っ
ているものは恐ろしい。ジェームズが瓶を見ないようにして息子に
わかったと約束すると、シリウスも同意した。ハリーは安心したように
笑顔になると、ぱたぱたと走って家に向かった。母親にも今日の
戦利品を見せるのだろう。それにしても、壜いっぱいのゴキブリを
プレゼントされて、ホグワーツの若き魔法薬学教授はどんな顔を
するのだろう。おそらく驚きはするだろうが、丁寧に礼をいうに違い
ない。静かに微笑むかもしれない。ジェームズとシリウスは精神上
の一卵性双生児のように揃って同じことを考えたが、ジェームズは
セブルスに可愛がられているハリーを、シリウスはハリーに熱愛
されているセブルスを羨ましく思ったのだった。

(2012.11.17)

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