水色の午後

 

 真夏の昼下がり、ゴドリックの谷にあるポッター家の門扉の前に不意に
人が現れた。夏の日の一番暑い時刻だというのに黒いマントに身を包み、
長い黒髪が肩を覆っている。幸いなことに辺りに人は見当たらなかった
が、黒づくめの人物は足早にポッター家の敷地に入っていった。不思議
なことにポッター家の傍を通りかかった村人は急に用事を思いだして来
た道を引き返すことになったので、この黒衣に身を包んだ不審な人物を
見かけた人がいたとしてもすぐに忘れて思い出すことはなかっただろう。
黒のマントから出た青白い手が玄関の扉をノックするより早く扉が大きく
開かれた。

「あいかわらず時間に正確ね、セブ。外は暑かったでしょ。さ、入って
入って!」

 燃えるように赤い髪に完璧なアーモンド型のエメラルド色の瞳を輝かせ
た美女が明るい声で黒衣の男を迎え入れた。男は室内に入るとマントを
脱いだが、やはり黒づくめの服で首も手首も足首も厳格に覆い隠して
いた。

「ちょっとセブ、いくらなんでもその格好は暑いわよ」

と言いながら赤い髪をした美女が杖を振ると、黒いシャツが涼しげな白い
シャツに変わった。

「袖も少し折った方がいいわよ」

と、てきぱきと指示する。男は神経質そうな外見にも関わらず、素直に言
いつけに従って袖の釦をほっそりとした長い指ではずして折った。すると
年相応の青年の雰囲気になる。

「リリー、ホグワーツの魔法薬学教授を子ども扱いするなよ。セブルス、
久しぶりだね」

 寝癖がついた黒褐色の癖毛を手櫛で直しながら、眼鏡をかけたヘーゼル
の瞳が悪戯っぽく笑った。セブルスも軽く目礼する。

「だって幼なじみの男の子ですもの。ジェームズ、あなたの髪の寝癖は
一度しっかり濡らさないと直らないわよ」

 やれやれと両手を広げるジェスチャーしながらジェームズはセブルス
に目配せしてパウダールームに髪を直しに去った。居間でリリーが出し
たよく冷やされた手製のジュースを飲んでいたセブルスが、

「ハリーを見かけないが…。ブラックとでかけているのか?」

と質問した。リリーとジェームズの一人息子ハリーはまだ幼児だがセブ
ルスにひどく懐いていて、セブルスも幼なじみのリリーの息子を大変可愛
く思っているのだ。今日のようにセブルスがポッター家を訪問した時には
すぐにセブルスに飛びついて大歓迎するのが常だった。

「あら、なんだか静かだと思ってたわ。セブが来るとハリーったら大は
しゃぎするのよね。あらかじめセブが来る日を教えるとカレンダーに丸
をつけて本当に指折り数えて待ってるのよ。あんまり事前に教えると
その日までうるさいから、今日セブが来ることは伏せてあったの。あの
子、二階でシリウスと遊んでるわ。セブが来てるって知ったら大喜びす
るわよ」

 セブルスは自分の来訪をハリーが楽しみにしてくれていると知ってひ
そかに嬉しく思ったが、ジェームズの親友でハリーの名付け親であるシ
リウス・ブラックが既にこの家にいると知って少々憮然となった。おそら
く仕事帰りにジェームズと一緒にポッター家に帰ったに違いない。ジェー
ムズとシリウスは双子のように仲が良く、シリウスはハリーのことを我
が子も同然だと公言して溺愛している。セブルスはシリウスの盲目的
な可愛がり方ではどんないい子も駄目になりかねないと批判的だった。
幸いなことにハリーは両親からの、特に母親からの素晴らしい愛に恵
まれているので自分の心配なぞ無用のことだと自嘲していたが、それ
でもシリウスの甘やかし方に眉を顰めずにはいられないのだった。
 リリーに案内されて二階への階段を上っていると、踊り場でポッター
家の飼い猫のジョーが床に伸びていた。ジョーはもともとジェームズが
実家で飼っていた猫だったが、今はハリーの猫のようになっている。
冬に一人と一匹でぴったりくっついている様子はそれは愛らしいもの
だが、暑い夏は袂を分かっているらしい。ハリーは健康な幼児らしく
体温が高めなので、ジョーがハリーを体よく避けているのだった。
子ども部屋はもぬけの空だったが、はしゃいだ笑い声がバスルームの
方から聞こえてきたのでそちらに向かう。リリーがバスルームの扉を
開け放つと巨大なバスタブが目に飛び込んできた。シリウスが魔法
で大きくしたバスタブのプールでハリーが浮き輪をつけてポチャポチ
ャと泳いでいる上からシリウスがシャワーをかけてやっていた。浴室中
が水浸しで、シリウスもずぶ濡れだったが本人がハリーと一緒に泳い
でいないだけマシだった。リリーは怒ろうと声をあげかけたが、世にも
幸福な惨状に笑い出してしまった。シリウスがバツが悪そうな表情で
シャワーを止めると、ハリーがリリーの後ろに立っているセブルスに
気づいた。

「わがはいっ!」

 いつものように叫び声をあげると、バスタブの縁からするっと滑り降
りて、床に溜まった水をバシャバシャを跳ね上げながら扉の外まで走
ってきた。そのままずぶ濡れの裸でセブルスに飛びついたが、礼儀に
煩いはずのセブルスもハリーのぽっちゃりとした小さな背中を抱きしめ
て平気で服を濡らした。

「わがはい、きょうくるひだったの?ぼく、しらなかった!」

 慌ててリリーが杖で取り寄せたバスタオルでセブルスがハリーの身体を
丁寧に拭いて包んでくれた。セブルスがハリーの頭の上で杖を振って髪
を乾かすと、ふわふわした癖毛が楽しげに揺れた。セブルスが自分の服
にも杖を振りさっと乾かすと、手をつないでハリーの部屋まで行く。シリ
ウスはバスルームの原状復帰をリリーに命じられたのでその場に残
った。セブルスが洋服箪笥からハリーの選んだ洋服を出してやると、
ハリーは自分で着替えた。動きやすいのでマグルの洋服を着ることが
多いらしい。猫のイラストが描かれたTシャツに膝までのゆったりした
パンツを着るとハリーは普通のマグルの男の子に見えた。母親譲り
のエメラルドグリーンの瞳を輝かせて、ハリーはセブルスに笑いか
けてきた。つられてセブルスも微笑むと、いっそう嬉しそうな表情にな
った。ハリーの子ども用のベッドに並んで腰かけて、前に会った時の
ことや、今日セブルスがいつ来たのか、うちに泊まっていけばよいなぞ
と思いつくままに話しかけてくるハリーに、セブルスは穏やかな声で答
える。今日は久しぶりに旧友たちがポッター家に集まることになったの
だ。ハリーには言わなかったが、ホグワーツに勤務しているセブルスに
合わせてジェームズたちも休みをとってくれたらしい。教師という職業
は、休暇中でも何かとやることが山積みで忙しいのだった。シリウスは
勿論、実業家のピーターも、何かはしているらしいリーマスも食事会に
は出席することになっている。皆、小さなハリーを愛しく思っている仲間
だ。ハリーはセブルスの膝にもたれて大げさに相槌を打ったり、脈絡な
く自分の話を聞かせたりしていたが、急に立ち上がると、

「わがはい、おもしろいものみせたげる!ちょっとまってて!」

 パタパタと軽い足音をたててハリーは窓際の箪笥のところまで走ると
真ん中の引き出しを開けてしばらくごそごそしていたが、やがて何か
紙切れを持ってセブルスのところまで戻ってきた。それはマグルの静
止写真だった。水着姿のハリーとシリウスが笑顔で写っている。魔法
写真のハリーはいつでもセブルスに向かって満面の笑みで手をぶん
ぶん振ってくるのだが、無邪気な笑顔の瞬間を止めている。太陽の
日差しに煌めくエメラルドの瞳、赤い頬、屈託なく歯を見せて屈託なく
笑っているあどけない口元。隣では完璧な美貌をしたシリウスが全く
同じ表情で笑っている。ハリーにとっては動かない写真が物珍しい
のだろう。

「こないだね、チリウチュとぷーるにいったんだよ。まぐるのおてるの
なかにあるんだよ」

 マグルの宿にそのような施設があるとは驚きだが、マグルの快適さを
追求する姿勢は凄まじいものがある。シリウスは魔法界でも特に純血
を重んじる名家に生まれた反動でマグルかぶれな男だ。半分マグルの
自分よりずっとマグル通だから、ハリーを喜ばせようと思って連れて行
ったのだろう。

「このしゃしんね、まぐるのおねえさんたちがとってくれたの」

「ほう?」

 セブルスの怪訝そうな相槌を気にせず、ハリーは説明した。

「チリウシュとぷーるであそんでね、つかれたからぷーるさいどでやす
んでたらおてるのひとがぼくたちにジュースをもってきてくれたの!」

「それはよかったな」

「あちらのかたからですって」

ハリーがジュースを運んできたボーイの真似をしてむっちりと短い
指を揃えてポーズを取った。

「どういうことだ?」

 セブルスが首を傾げながら訊ねると、

「まぐるのおねえさんがふたりいてね、チリウシュとはなしたいって」

 ハリーの名付け親のシリウス・ブラックは大変な美男子で有名でホグ
ワーツ在学中は学校中の魔女の憧れの的だったのだが、マグルの女性
にも魅力的に見えるらしい。セブルスから見てシリウスはジェームズと
自分を同一視しているところが多分にあって、ハリーのことも我が子の
ように思いこんでいる節がある。親馬鹿の顔が見たければシリウス・ブラ
ックを見ればいいのだが、女性一般にはとんでもない色男に映っている
らしい。子連れの身で女性の方から逆ナンパされるとはある意味大した
男かもしれない。これは食事会の後でハリーが寝てしまってからセブル
スがシリウスに確認した話だが、シリウスは女性たちと連絡先を交換した
が、再び会ってハリーと一緒に撮ってもらった写真を受け取った後で忘
却呪文をかけたということだった。子どもを優先できない女性は魅力
がないと宣っていたが、おまえもハリーと一緒の写真目当てだっただろ
うとセブルスは指摘してやりたくて仕方なかったが喧嘩になると大人げ
ないと自重したのだった。

「こんど、わがはいもいっしょにいこうよ。ぼく、うきわつけたらおよげる
んだよ。かおも3びょうくらいならみずにつけれるし」

とハリーが誘ってきた。マグルのホテルなぞシステムがよくわからない
うえに、実は泳いだことがないのでセブルスは困ってしまった。何より
水着になると腕のダークマークが露わになってしまう。隠す手だてを考
えているうちにハリーはあっさりと次の話題に移った。

「おぐわーつのみずうみにはおおきなイカがいるってほんと?」

不意を突かれたセブルスは一瞬沈黙したが、すぐに気を取り直して、

「ああ、いるぞ。あの湖は多様な魔法生物の宝庫なのだ」

 大きなエメラルドグリーンの瞳をまるくするハリーにマーピープルの
話でもしてやろうかとセブルスが口を開きかけると、

「ぼく、およいでみたいな。わがはい、いっしょにおよごうよ!」

と提案されたので、結局泳がなければならないのかと動揺しかけたが、

「それにはまずハリーがホグワーツに入学しなければいけないな。その
時にまた話そう」

と冷静さを装って話しかけながら、何となく耳に髪をかけると、

「わがはい、せくしー!」

とハリーがまるい顔を輝かせて叫んだので、吃驚して思わず吹き出して
しまった。

「どこでそのような台詞を覚えるのだ」

 うふふと笑うハリーのくるくると全方向に跳ねている髪をそっと撫でて
やると、気持ちよさそうに目を細めてセブルスに凭れてきた。うっすらと
汗ばんだ体温の高い小さな身体の重みが心地よい。ゆっくりと小さな背
中を優しく叩いてやると、次第に瞼が塞がり、みっしりと生えた長い睫の
影がまるい頬に落ちた。シリウスと散々水遊びをしただろうから疲れたの
だろう。しばらく昼寝をするとよい。ことりと眠りに落ちたハリーの体温を
慈しむようにセブルスは静かに見守りながら身動きできないでいた。

(2012.7.25)

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