終わりの始まり

 目を醒ますな。
その瞳は私の憧れの全て、苦しみの全てだった。

 目が醒めた。身体を起こしてサイドテーブルの上の時計で時刻を
確かめると就寝してからまだ二時間ほどしか経っていない。元々、
眠りが浅い体質なので気にはならないが、隣で眠る者を起こさな
いようにもう一度横たわると、掛け布団を引き上げた。隣で熟睡し
ている男の頭はうつ伏せているために癖の強い黒髪がふわふわ
とした羊毛のように見える。興をそそられて、そっと手を当ててみ
た。意外なことに手のひらに温もりが伝わってくる。心地よい温度。
長い間、この私の隣で熟睡している者を守ることを最優先にして
きた。結果として私はうまく出来たのだと思う。隣で無事でいるの
だから。それでも、不思議でならない。自分が生きている事と、
守り続けた者がその温もりを私に分け与えている事が不思議で
ならない。寝付きは悪い方なのでもう一度眠れるかどうかわから
なかったが、とりあえず目を閉じた。あたたかい手が私の手を探
り当ててきたことに気づいたが好きにさせる。大きくあたたかい
手が冷たい私の手に体温を移すようにしばらく包みこんでから、
湿った感触がして口づけられたことがわかった。


 放課後、夕食の前に一度自室に戻ろうと校庭が見える外回廊を
歩いている時、頭上から私の名を呼ぶ声にその場に立ち止まった。

「スネイプ先生!」

グリフィンドールの、今や名実ともに魔法界の英雄となった男が、
クディッチのユニフォーム姿のままで箒からひらりと飛び降りた。
片手で箒を持って私の方に走ってきた。

「練習だけ参加させてもらってるんです。もう試合には出れないん
ですけど」

 あのヴォルデモート卿率いる闇の陣営と対決するために7年
生を放棄したこのハリー・ポッターは、決着がついた後に復学し
たのだ。卒業のために授業の単位を取得する許可は降りたが、
クディッチの試合に出たりはできないらしい。グリフィンドールの
寮監で、もちろんグリフィンドール贔屓のマクゴナガルにしては
公平な措置だ。この男がグリフィンドールのシーカーでいるかぎ
り、他のチームの勝ち目は薄い。もっともマクゴナガルは、ポッタ
ーを人目に晒さないようにという配慮から、苦渋の決断を下した
に違いない。

「試合に出るためではない練習なぞつまらなくはないか?疲れ
るばかりだろう」

 私の問いかけに、ポッターは明るく笑った。

「箒で飛びまわっていると気が晴れます。楽しいですよ。
先生こそお疲れなのではありませんか?前と同じだけ授業
を受け持たれているのでしょう?」

「問題はない。もう一度毒蛇にかまれない限りは大丈夫だろう」

 冗談のつもりだったが、ポッターは辛そうに表情を曇らせた。
空いている方の手で私の肩をとると物陰に連れていく。身体
を密着させるとポッターから微かに汗の匂いがしたが不快で
はない。クディッチ選手らしい節くれ立った指が私の頬をそっ
と撫でた。

「今夜、先生の部屋に行ってもいいですか?」

 疑問形だが、承知しないと納得しない気配が漂っている。
頷くと、ポッターは私の背中に両腕をまわして手加減はされて
いたが強く抱きしめてきた。息苦しい抱擁の後、名残惜しそう
なポッターと別れて、歩きだした。背中にポッターの視線を感
じていたが振り返りはしなかった。夕暮れ時の校内は、それで
も学生達で騒がしい。学生達はあっという間に非常の日々を
忘れて、ホグワーツでの生活を送っている。私は負傷した傷が
癒えるまでの数ヶ月間、聖マンゴに入院していたが、退院し
てホグワーツに戻った。新たに校長になったマクゴナガルに
校長室で、これまでの誤解を謝罪され、かつての担当科目で
ある魔法薬学の教師への復職を依頼された。あのホグワーツ
での決戦以後、ホグワーツの教職に就きたがる者は激減した
らしい。当然だろう。校長室の壁中に置かれた肖像画の中で
一番新しい肖像画の真白な長髪に半月眼鏡をかけた知性と
ユーモアを漂わせている老人は、マクゴナガルに恐ろしい
剣幕でそれまでの秘密主義を責められ、歴代の校長達に
取り成してもらったらしい。私一人に重責を負わせた事、
自分を蚊帳の外においた水臭さに対する不満などマクゴナ
ガルの怒りを鎮めるのに苦労したと、朗らかな口調で私に
話すダンブルドアの老練さは肖像画になっても相変わらず
だった。これでも私はホグワーツを愛していたし、教師の職
にそれなりに満足していた。もっとも私が教師になれたのは
ダンブルドアがいずれ私にハリー・ポッターを守らせる目的
で推薦してくれたからだ。ハリー・ポッターがホグワーツから
卒業する時、私がホグワーツにいる理由も消滅する。だか
ら、とりあえずはハリー・ポッターが卒業するまでの短期間
なら復帰するのに吝かではない旨を新校長に告げた。
マクゴナガルも肖像画の老人達も理由を聞いてきたが、
復帰するのは本来の任務を最後まで遂行する為で、辞める
のはその後の人生を自分の為に使いたいからだと答えた。
現在、英国及び欧州には何種類の魔法薬用茸が生息して
いるかご存知か?マグルの環境破壊が、魔法植物の生息
にも多大な影響を与えている昨今、この分野の研究に第二
の人生を捧げて取り組もうと考えていると適当に話をでっち
あげて煙に巻いたが、久しぶりにホグワーツに戻り、学生達
のローブの群れの騒々しさに頭痛を覚えたのが本当の理由
だ。しばらく離れてみて改めてわかったが、私は子どもが
大嫌いだ。ハリー・ポッターに関しては、あの子がホグワーツ
を卒業するまでは私が見守る義務がある。
そういうわけで今は残り少ない日々を消化しているというわ
けだった。

 かつて私はポッターと性的な関係を持っていたことがある。
ダンブルドアが死亡する少し前だ。当時のポッターはかなり
混乱しており私を煩わせることが多かった。病死したダンブル
ドアを私が殺害したように見せかける極秘計画を知ったポッタ
ーは強く反対してきた。世間的に私が殺人犯になってしまうと
言うのだ。正解だが、そう思わせるのがダンブルドアの意図
するところなのだ。その事を何度説明しても頑なに反対して
きかないので、非常手段としてポッターと寝た。肉体関係とい
うものは手っとり早い信用と親しさをもたらす効果が期待できる。
ポッターが私を殺人犯にしたくないと拘るのは、何かしら私に
執着しているからに違いないからだ。この年になって、十代
の欲望や葛藤に付き合う羽目になるとは思わなかったが、
身体の相性は悪くなかったし、疑似的だが信頼関係を作るこ
とが出来た。ポッターは世界中で唯一人の私の味方になった
というわけだ。私としては、それまでできるだけ情をかけない
ようにと努めてきた少年と深く関わる羽目に陥ってしまったわ
けだが、意外にもその事が心に平穏をもたらしたのだった。
ダンブルドアはポッターがヴォルデモートに殺されることによっ
て、ポッターに寄生していたヴォルデモートの魂が完全に消滅
すると予言していた。だから、来るべき時には全てをポッター
に伝え、自らを犠牲にさせよと私に命じていた。私はその非
情さに憤りを覚えずにはいられなかったものだ。自分が命懸
けで守ってきたことが無駄になるではないか。しかし、冷静に
なって事態を分析してみると、ダンブルドアの計画こそが、
実はポッターがヴォルデモートと分離して生き残る唯一のやり
方なのではないかということに思い至った。それは危険な賭け
ではある。ポッターとヴォルデモートの差し違えになるかもしれ
ない。おそらくダンブルドアにはポッターの自己犠牲の精神
こそが、ポッターを勝者にするという確信があったのだろう。
それならば、私もその事をポッターに伝えてはならない。ポ
ッターの勇気は他者を救うためによって最高の力を発揮する。
私がポッターと関係を持ったことは、やはり私の気休めにすぎ
なかったのかもしれない。私はポッターと寝て、私が守ってき
たものの、幼稚さや痛み、体温を知ったがそれで良かったの
だと思えた。知らないでいるより、知った方がましだ。ポッター
の命の心配ばかりしていたが、自分が生き残る可能性がない
こともわかっていた。それなら、最後に自分が守っている者に
触れて見たことは悪いことではないと思えた。何においても
知らないよりは知っている方が私の好みに適っている。
 私が生還したことに一番驚いたのはおそらく私自身だ。あの
毒蛇に噛まれた直後、奇跡的にポッターに記憶を渡すことが
出来た時、これで思い残すことはないと安堵して意識を失
ったのだ。意識が戻った時は、暫くの間、死後の世界にいる
のだと思っていた。聖マンゴの病室で、数人の癒者に治療
を施されているのが現実だと認識した時、私は衝撃のあま
り気を失いかけた。癒者にポッターの安否を尋ねると、無事
だと教えてくれた。ポッターが、危篤というより、ほとんど息絶え
かけていた私を緊急に聖マンゴに搬送するよう手配してくれた
らしい。聖マンゴの受付に突然、血塗れの私を抱えた大柄な
ハウスエルフが出現して、大騒動になった。ハウスエルフ
が、「我が主ハリー・ポッターの命により、この方をお運びして
まいりました。早急に治療を!」と僕らしからぬ周囲を威圧す
る声で告げたが、私の悪名は病院にも轟いていて、治療を渋
る癒者は多かった。しかし、ハリー・ポッターの名と癒者の倫
理を優先する者が率先して治療に当たってくれたらしい。
日を追うごとに、ハリー・ポッターがヴォルデモートを倒した事、
そのポッターが私の潔白を主張して、快癒を強く希望している
ことが病院に伝えられてくるにつれて、私の待遇も良くなって
いった。幸いなことに同じ毒蛇に噛まれたアーサー・ウィーズ
リーを治療した癒者がいたことと、ネビル・ロングボトムがグリ
フィンドールの剣で殺した蛇の死骸がすぐに病院に送られてき
たので毒の解析ができたことが役立った。ポッターはすぐにも
見舞いに来たがっていたそうだが、マクゴナガルや周囲の者に
止められていた。私の容態が深刻だったこともあるし、情報が
錯綜していたので、ポッターの安全を第一に考えての配慮だ
ったのだろう。 

 ホグワーツに戻った日に、ポッターを遠くから見た。ポッター
が私に気づいたかどうかはわからなかった。その夜半に私の
部屋の扉をノックする音がした。扉の前にポッターが立ってい
た。迎え入れた時、私はポッターを受け入れるつもりでいたの
で、

「眠れなくて…」

と、呟くポッターの手を無言でとって寝台に入った。ポッターは
私と手を結んでいない方の手で私におずおずと触れてきた。
髪や頬、腰をそっと撫でてから、首の傷に触れた。傷は塞が
っているが、痕は残ると癒者に言われている。ポッターの額の
傷と同じだ。

「…痛くないですか?」

「痛い」

と、言うとポッターは慌てて指を離して謝ってきた。

「冗談だ、もう治っている。おまえが触るのでくすぐったいだけだ」

 こちらも吃驚して訂正したが、ポッターは辛そうに顔を歪めた。
困ったものだと思いつつ、ポッターの顔を抱いていると、私の
首筋に顔を埋めてきた。それが合図の筈だった。続きを待って、
目を閉じていると、やがて規則正しい寝息が聞こえてきて
唖然とした。目を開けて見ると、ポッターは眠っていた。やれやれ、
と思いながらいつしか私も眠りにおちていた。それから、毎晩の
ようにポッターがやってくる。以前のような関係をポッターが求
めてきたのかと思ったのだが、そういうことはなかった。少し話
をしてから、一緒に眠るだけだ。何かポッターは子どもがえりを
しているのだろうか。幼児期に親を亡くして愛情を受けられな
かった反動がおきているのだろうか。私を親と同一視している
なぞ奇妙な上に滑稽な話だが、ダンブルドアから私がポッター
を守護する依頼を受けていたことを知って、そういう心境になっ
ているとも考えられる。昔のように、冷たく突き放すべきなのか。
だが、何のために?今の私にその気力は失せている。
暗闇の中で一緒に眠っている時に、ポッターが私の身体を
まさぐってくる。私が眠っていると思って、そっと私の身体に触
れてくる。指は顔や首、寝間着越しの身体を確かめるように探
ってくる。私の手の甲や指に口づけることもある。しかし、その
続きはない。皮膚を通して伝わってくるものに身体が反応しそ
うになるのを抑えるのが結構辛い。こちらからまたポッターに仕
掛けて、性的な関係に持ち込めばいいのだろうか。そうなった
ら、今度はいつまでそれが続くのか。前は終わりが見えていた
から始められた。今は終わりたくないから、始めたくない。しか
し、訪ねてくるポッターを部屋に受け入れることをやめられない。
生殺しだと思うのに、温かい身体に密着してしまう。厄介な荷物
のようでもあるこの温もりと今はまだ離れがたい。

(2012.10.20)

 
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