アドバイス

 
 寝室の姿見の前でかつて魔法界の救世主と呼ばれ、現在は新人の
闇払いであるハリー・ポッターは任務用に支給されたマグルのスー
ツを着て、ネクタイを結ぼうと格闘していた。闇払いの職に就いて
顔からは学生時代の幼さは消え、充実した人生を送っている者に
相応しい輝きが若々しい身体全体から溢れている。
そこへこつこつとノックの音が聞こえた。応える間もなく「入るぞ」
と断りの声とともに扉が開き、同居している元ホグワーツの魔法薬学
教授のセブルス・スネイプが滑らかな足取りで部屋に入ってきた。
落ち着いた様子に似合わず足音をたてずに歩くのでどこか猫の動きを
思わせるが、本人にそう指摘しても鼻であしらわれるに違いない。
セブルスは薄手のタートルセーターの上に深緑のカーディガンを羽織
り、ゆったりとしたスラックスという寛いだ姿だ。ホグワーツでの教
師時代は年中、黒の長衣で通していて謹厳にして神秘的な雰囲気
だったが、今は派手な色を着ることはないものの年相応の服装をし
ていて、それがかえって俗世との距離がある生活を長く送ってきた
人特有の年齢不詳な印象を見る人に与えていた。実際、ハリー
は一緒に暮らし始めてからセブルスとの年齢の隔たりを年々感じな
いようになっているのだが、そう話すとセブルスは苦笑して鼻であ
しらうのが常だ。
 迷いのない足取りで傍にやってきたセブルス・スネイプからは薬草
の匂いが微かにした。午後中、魔法薬を煎じていたのだろう。ハリー
は仕事を終えた後でもセブルスに沁みついたその香りが好きだった。
ハリーがセブルスの髪に顔を寄せてを鼻で軽く髪を撫でるとセブル
スは煩そうに頭を振ったが本気で嫌がっているわけではなかった。

「ねぇ、ネクタイの結び方ってこれで合ってるかな」

セブルス・スネイプはじろりとハリーの若々しい首のあたりを一瞥
し、おもむろにキュッとネクタイを締め上げてきた。

「首が苦しいよ」

と、ハリーが訴えると、

「仕事なんだろう。それならきちんとしておかなければいかん。お前
の結び方は緩すぎて寮を抜け出してきた落ちこぼれの不良学生に
しか見えん」

セブルスは元教師らしい厳格な表情で言い放った。セブルスは
ハリーのことをホグワーツ創立以来の問題児だったと未だに何か
につけて大袈裟に嘆いてみせるのだ。二番目と三番目はハリーの
父とハリーのゴッドファーザーだということを付け加えることも忘れ
ない。ハリーに言わせれば、一番の問題児はヴォルデモート卿だと
思うし、アルバス・ダンブルドアにもセブルス・スネイプにも問題は
あったのではないかと考えているのだが、反論すると面倒なことに
なるのであえて反論はしないでいた。

「明日からなのか?」

セブルスはいかにもさりげない様子でハリーに尋ねた。セブルスには
極めて関心がある事柄に限って殊更平静を装って話題にするという
癖があったが、ハリーは特に気に留めた風でもなく暢気な口調で、

「うん、何もなければいいんだけどね。マグルの世界だとやっぱり
神経を使うよ」

と答えた。明日から数日間ハリーの所属する闇払いの部隊はマグル
のロンドンの地下鉄を警備することになっている。マグルの政府に潜
入している魔法省の特殊任務担当の魔法使いから、ロンドンの地下
鉄の駅を狙ったテロ計画をマグルの政府が掴んだと連絡があった。
そのテロリスト集団に闇の魔法使いが数人参加している可能性が
高いらしい。そこで魔法省の闇払い部に地下鉄の警備の仕事が回っ
てきたのだ。
魔法界とマグルの世界は連動している。というよりも二つの世界は
分離されておらず、複雑に混じり合っているので同一の世界といえ
る。そして昨今、マグル界ではテロが各地で頻発している。大半は
マグルのテロリストの仕業であるが、中には魔法使いが関わってい
る事件もある。魔法界に入ってくるマグルは限られているが、逆の
場合は魔法省も完全に把握できていないのが現状だ。ハリーは母が
マグル生まれの魔女で、マグルの伯母の家で育ったのでその任務に
適任だということになったのだ。それで、マグルの社会人に扮する
べく、慣れないスーツを着て、ネクタイを締めてみているところだっ
たのだ。
 ハリーからマグルの地下鉄警備の任務につくかもしれないと聞いた
時、セブルスはそうかと素っ気なく答えただけだった。お互いの仕事
については干渉しないという暗黙のルールがあるのだ。ハリーもセブ
ルスの魔法薬の研究については一切口出ししないことにしている。
もっともハリーには研究内容がよくわからないということもある。
そうはいってもかつてセブルスはダンブルドアの命を受けてハリーの
ことを長年にわたり見守ってきた、というより監視していたといって
も過言ではないほど厳格に保護していた。当時はハリーへの愛情
ではなくスリザリン的完璧主義からくる責任感からその任にあたっ
ていたのだが、セブルスは基本的に今でもハリーに対して過保護な
傾向がある。
ハリーがたまに風邪でも引くと直ちに薬を煎じて問答無用で飲ま
せ、快癒するまで看病というより厳しく監視する。また、残業が続け
ば不機嫌になった。過重労働は健康を損なうと考えているからだ。
自分はホグワーツの教師時代、二十四時間体制でハリー・ポッター
を見張っていたほど重度のワーカホリックだったことは都合良く忘れ
ているらしい。
 セブルスはハリーのジャケットの肩のあたりをほっそりとした長
い指で直したり、背を押して姿勢を正すよう促しながら、細々とした
注意を与えた。曰く、

「杖はジャケットの内ポケットに入れておけ。トラウザーズのポケ
ットだと咄嗟の時に間に合わないぞ」

「ペアゾール石もすぐに口に放り込める状態にしてポケットに忍ば
せておくこと」

「ドア付近の内側に向かって立っておくべきだが、ドアが開く時に
は外側にも気をつけるように」

「使える呪文を常に三つは頭に浮かべておくこと」

「不心得者はすぐにわかるものだ。私なぞ、授業中によそ事をする
者や、カンニングする輩は人目で見抜いたものだ」

「繰り返すが、一見普通のマグルに思えても油断してはいけない。
自分がマグルに扮しているということは敵も同じ事を考えている」

くだくだしいセブルスの訓戒に、ハリーはわかったといちいち素直に
肯いていたが、

「それからいつも言っていることだが車両の中では両手を頭より上に
必ず上げておくように」

と言われると困惑した表情を浮かべた。セブルスはハリーの表情の
変化に目敏く気づいたが、自分の注意をよく理解できなかったの
だろうと考えたらしい。

「痴漢に間違えられてはいけない。お前はすぐに人に触れる癖があ
る。家では私が我慢すればいいが、外でやったら犯罪だ。これは
マグルでも魔法使いでも同じだ」

と噛んで含めるようにゆっくりとした口調で説明した。

「セブルスにしか触んないよ」と言うハリーの視線の熱気をセブルス
は微塵も意に介さず、

「その認識が甘いのだ」と一喝した。ハリーは、

「前も話したけど、セブルスの言うとおりにしたら大騒ぎになっち
ゃったんだよ」

と言って今度はややわざとらしく溜息をついて見せた。
 実を言えば、常日頃のハリーはセブルスの訓戒を右から左に聞き
流している。しかしその日、ハリーは魔法省のエレベーターの中で
ふとセブルスの言葉を思い出して何気なく両手を上げてみたのだ。
後から考えると魔が差したとしか思えない判断だった。次の瞬間、
エレベーター内は恐慌に陥った。床に伏せる者と果敢に杖を振り回
す者が入り乱れ、悲鳴と怒号が響きわたった。下降していたエレベ
ーターが止まって扉が開くと、今度は乗ろうと待機していた人たちが
エレベーター内の異常な様子に戦慄し、一斉に杖を掴んで防御と
攻撃の体勢を取るなか、エレベーター内から逃げ出してくる者と
衝突し、ますます収拾がつかなくなってしまった。ハリー自身は
状況に驚いたものの、すぐにパニックに陥っている集団から脱け
だすことに成功して、鎮圧部隊を呼びにいき、一緒に事態の収拾
に努めた。幸い、死者や重傷者は出なかったのだが、騒動の
調査が進むうちにあの魔法界の英雄ハリー・ポッターが最初に
異変を察知して杖を天にかざして合図したという証言が複数出た。
魔法界においてハリー・ポッターを英雄視する者は多い。結局
ハリーは、魔法省の上層部から呼び出しを受けて事情を説明す
る羽目に陥り、軽率な振る舞いは慎むようにと厳重注意を受けた
のだった。その日の帰宅後に早速セブルスに事の顛末を話して聞
かせたのだが、セブルスは眉を神経質そうにつり上げながら話を聞
きおえた後、おもむろに魔法省の役人たちの軟弱ぶりを非難し始め
た。魔法省の役人は臆病者揃いだというのだ。ひとしきり魔法省の
役人たちの無能を罵った後、今度はハリーを叱りつけた。
ハリーには目立ちたがり屋の欠点があるがそれは大変愚かな欠点
である。人前では常に気配を消しておくべきで、エレベーターのよう
な密室では、状況に応じて扉付近か一番奥にいるのがよく、真ん中
に立つなど馬鹿の極みである。

「そんなこと言ったってさ、気づいたら真ん中にいたんだよ」

ハリーがあまりのセブルスの言い草に反論しかけると、セブルスは
ますます意地になって苛立ち、

「密室に入るのにぼんやりとしている奴があるか。人の流れに
のまれないように意識して動くものだ」

と怒った。結局セブルスの剣幕に押されて、ハリーが不注意かつ
軽率だったので今後は気をつけるという事で話は終了したが、ハリー
はそれ以後人前で手を挙げる行為はしていない。
 セブルスの忠告は、ハリー自身のことから、おそらく無能であろう
同僚との距離の取り方、はては万が一の時にマグルを安全に地上
に逃がす誘導の仕方にまで途切れることなく続いていた。結局、セ
ブルスはハリーのことがいつまで経っても心配なのだ。ハリーは
不意に延々と訓戒を垂れ続けているセブルスの背に腕を回し、その
華奢な肩に顔を埋めた。ハリーはセブルス独特の匂い、数種類の
薬草が混じり合った、苦みと甘さの両方を感じる匂いにいつでも安
心と興奮という相反する反応を覚える。

「こら、私の話を聞いているのか」

肩に顔を埋めてきたハリーをセブルスは叱った。しかし、その声は
和らぎ、年下の恋人を甘やかす響きが滲みさえしていた。セブ
ルスはハリーに対して厳しく接する傾向があるが、他方ではハリ
ーに頼りにされることを密かに好んでいる。ハリーは数年に亘る
セブルスとの生活でその事に気づいていた。

「うん。セブルスの言うこと気をつけておくよ」

ハリーが素直な口調でセブルスに囁くと、

「何だ、心配になったのか?まぁ、何事も備えておけば大丈夫だ」

セブルスもハリーの背に腕をまわし、安心させるように擦った。
ハリーがセブルスに顔を寄せて唇を軽く吸うと、仕方なさそうな素振
りで応えてくれた。何度も吸い合ううちに、次第に口づけは激しく
なり、いつのまにかハリーがセブルスを抱き締めていた。ハリーは
夕食の前にこのまま寝台にもつれ込んで続きをしたいと考えながら
セブルスの背や臀を手のひらで撫でまわした。セブルスはハリー
の思うままに身体を弄らせていたが、その手でハリーの股間の膨ら
みを抑えてきた。考えていることは同じらしい。ハリーは明日からの
任務に備えて、今日は恋人を充分に愛しておこうと考えた。世界
の平和のために貢献するのに吝かではないが、まずは自分が満ち
たりておくことが肝心だと若き英雄は思うのだ。


(2017.5.21)

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